短編集90(過去作品)
夢の世界もそうである。時間を感じさせることなく潜在意識の範囲で見ることができるが、肝心なところで目が覚めてしまったり、夢の内容を目が覚めるにしたがって忘れてしまうこともその代償のように思える。
利美のことを忘れてしまっているのも、きっとその代償であろう。夢を見ていると感じながら助けることができずに、焦っているのがその証拠である。
夢の世界の中で、暗黒の世界の中で、不快指数が最高潮に達した。
――もうだめだ――
と感じた時、目の前が少しずつ薄っすらと見えてきた。
目の前には断崖絶壁、自分でも想像していたように思えてならない光景だった。カッと目を思い切り見開いて前を見た瞬間、目の前の女性が利美であることに気付き、いつ彼女と出会ったのかを悟ったようだ。
しかし、その瞬間に目が覚めてしまった。またしても、肝心なところで目が覚めてしまったのだ。
だが、坂下が利美を過去に知っていたことを本当に悟ったのはその時だった。まるでこの旅館に来てから時間が逆行しているように思える。
――時間が逆行――
今、考えている坂下は、自分の肉体を捜した。真っ暗な中で身体が宙に浮いていた感覚を覚えたのは錯覚ではなかったのかも知れない。
――あれは夢だったのだろうか――
ひょっとして、人間誰しもが通る道、つまり最後の最後で見る光景を見てしまったのではないだろうか。そしてその光景は、本人が一番心残りだったことを前置きとして見る。利美という女性は坂下にとってそういう女性だったのだ。自殺を止めることができなくてずっとわだかまっていた気持ちも今はすっきりしている。
――これで彼女のところに行ける――
それがここに来た目的だったのだ。
滝の力強いそばで冷たく横たわっている肉体、すでに轟音など聞こえなくなった坂下はじっとその肉体を見つめていた……。
( 完 )
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次