短編集90(過去作品)
もやの中のイメージというと、当たっている光が影を作るので、真っ白いもやの中に浮かび上がっている姿は全体的に真っ黒く、影を含んだ大きさになっているものだ。しかも、音は湿気た空気の中で響くだけに、全体が湿気の膜のようになって低く響く、まるで銭湯の中にいるような感じだが、湿気という空気に重さがあるためか、実際に聞こえるよりもかなり遅れて聞こえてくるに違いない。
目の前にいるのは、女性である。白いハンカチか手ぬぐいのようなもので手を振っている。その場所から逃げられなくて置き去りにされてしまったのだ。
その人のいる場所の正面まで動いてみた。そこには橋があったであろうと思って見ているが、どうやら水没したのではなく、小さなつり橋みたいなものがあって、それが流されてしまったに違いない。
途中に真っ赤な棒が両端に立っていて、そこから橋を支えていたであろう欄干が垂れ下がっている。
しかし、坂下が女性に気付いて近づいてみると、彼女はもう白いハンカチを振るようなマネをしていない。
さっきまでは見えなかった表情を見ているが、その顔には安心感とともに、眼下の頬骨をひくつかせ、不思議な表情をしている。何かを我慢しているのかと思ったくらいだ。
安心感といってもその表情から見て取れる気持ちは、
――助かった――
というものとは違うようだ。逆に助かったという気持ちとは正反対のようにも見え、見つけたことで何かの覚悟が一緒に噴出していた。
――自殺? しかし、どうしてこんなとことで? しかも自分が発見したことに対して少なくとも安心感を含んだような顔をしているんだ――
と感じた。
もちろん坂下は人が自殺するところになど立ち会ったことはない。交通事故を目の前で見てショックを受けたことはあった。おかげで数日肉を食べることができないほどリアルな光景だったが、それも小さい時のこと、夢を見た時からかなり前だったことには違いない。
以前から人が死ぬ瞬間というのを見てみたいという不謹慎なことを考えることがたまにある。それも、若い女性のイメージしか湧いてこないのだ。
――美しく死ぬ姿――
これを想像したいからかも知れない。
小さい頃、羽衣を着た天女の話を聞いた時、すでに心の中でそんな姿を想像していたのかも知れない。もちろん死ぬ姿を想像したわけではないだろうが、綺麗に透き通った羽衣に身を包んでいると、実に弱弱しく見え、儚さを感じる。まるでスローモーションを見ているかのようで、気持ちよく眠りに就くように倒れ、気がつけば死んでいたというような光景を思い浮かべていた。
真っ白い肌に、透き通ったピンク色が綺麗に映えている。すべてがスローモーションで展開され、
――夢とはまさしくこういう場面のことをいうのだろう――
と思うに違いない。
今見ているのが夢の中だという意識を持ったのは、羽衣が天女の倒れている場所からフワリと浮かび上がっているのを想像したからだ。きっとその時には風も吹いていないだろう。まっすぐに上がっていく羽衣は、天女の魂を乗せて天に帰っていく様を表している。ふわふわと規則的に浮いているように見えるが、実際は微妙な強弱があるに違いない。
――強弱の度合いによって、宙に浮いているんだ――
と思えてきた。
綺麗な状況を思い浮かべていると波の音がどこかから聞こえてくる。細波が寄せては消え、砂浜に残った砂紋を消している。
だが、穏やかな景色を永遠のものにしてくれるほど、自分の潜在意識は甘くなかった。
――助けなくてはいけない――
まず最初にそう感じるのは当然だが、感じるのは、美しい死に方を想像することだったり、まるで他人事のように、夢の中を彷徨っているような感覚だったりするのだ。するとさらに夢のような感覚が調子に乗ってくる。
何と言っても助けるための橋が水没して渡れないのだ。焦りは次第に自分を夢の中に追いやり、すべてを夢として片付けるかのように、他人事の目で見てしまっている。
――きっとこれは夢なんだ――
きっとそうだろう。リアルには感じるが、夢以外に考えられないところが多すぎる。だが、夢として感じているわりには、目が覚めてくれない。普通、非現実的な夢を見ている時に、
――これは夢なんだ――
と感じると、我に返りすぐ夢の世界から戻ってくる。それは嫌な夢であってもいい夢であっても同じで、嫌な夢であれば、
――夢から覚めてよかった――
と思う反面、気持ちが中途半端なまま、何かを夢の中に忘れてきたような気持ちにさせられる。
逆にいい夢だったら、
――もっと先が見たかった――
と思うのは当然だろう。
どちらにしても、中途半端に目が覚めるのは辛いものである。
さらに夢の中で、非現実的な感覚が広がっていく。
蛍光灯のスポットライトが浴びせられているように見えてくると、すべてのものが人工的なものに思えてくる。綺麗な空も映画のセットのようで、張子のように平面に感じられると、急に風が吹いてくる。砂嵐が巻き起こったかと思うと、目を押さえて前が一切見えなくなっている。
耳だけで音を聞いていると、轟音なのだが、滝の音のような低い音ではない。風化した岩の間を通り抜ける風の音のように力強さは感じるが、まるで貝殻を耳に当てた時に感じる風が通り抜ける音である。
明るいと、目を閉じていても明るさが赤い色として瞼の裏に残っているものだ。それがいつのまにか真っ黒になっていた。
――もう目を開けても大丈夫だ――
と思って気を開けたが、
――あれ? 目を開けたはずなのにおかしいな――
真っ暗で前が見えない。さっきまで見えていたものが少しでも明るければ残像として残っているはずなのに、あまりの暗さに残っていない。
目を閉じている時でも残像は残っているはずなのに、目を開けると途端に残像すら消えた暗黒の世界が広がっていたのだ。恐怖心が次第に襲ってきて、じわじわと背中に汗を掻いてきたのを感じた。暗黒の世界というのが湿気を含んでいて、暑いものだという認識があるからだろう。
目の前にあるものが見えるというのは、光があるからだ。太陽の光の恩恵を受け、少しでも光があれば、形、色、大きさ、すべてを知ることができる。そこに影が発生し、立体感を影によって感じることができるのだ。
――もし、光というのがなくなったら――
と考えたこともあった。
目の前に何があっても分からない。いや、何もないかも知れない恐怖、きっと一歩も動くことができずに、息苦しさだけが支配した世界にいることだろう。
光って見えるのは、光を反射しているからで、暗黒の世界がもし存在するとすれば、それは光をすべて吸収してしまう世界が創造されるだろう。
――これも異次元の世界なのだろうか――
四次元の世界は今の自分たちの世界に加え、時間を超越しした部分を持っているものである。だが、本当にそれだけなのだろうか。今の世界に一つ大きなものが加わることで、――何かを犠牲にしているのではないか――
と考えてしまう。その時に感じたのが、光のない世界、つまり何も見えないことがその代償ではないだろうか。
作品名:短編集90(過去作品) 作家名:森本晃次