短編集89(過去作品)
しかし逆にその思いを覆してくれるような男性が現われたとすれば、その人は本当に節子にとってかけがえのない男性になるに違いない。友達からも、
「あなたと結婚する人は、きっと本当に素晴らしい男性なんでしょうね」
と言われていた。
――素敵な男性の出現を夢見るシンデレラのような気持ち――
そんな思いが心の底にあったに違いない。
そういう意味でも離婚という言葉は、節子にとってはかなり高いハードルであったことに間違いない。それを乗り越えるにはよほど何か一つでも心を動かせるだけのものが男性側にないと難しいだろう。
節子にとって幸雄はとても素晴らしい男性に見えた。それは第一印象から感じ取ったことであるが、幸雄には懐かしさを感じるのだ。
――父親のような感覚――
小さい頃に父親を亡くしている節子は、父親のような雰囲気を持った男性に弱い。幸雄には父親のような雰囲気があったのだ。
節子の印象に深い父親のイメージ。それは顔を見上げるとそこにある顔だった。
しかし、その顔がハッキリとしているわけではない。後ろから太陽の光が容赦なく当たっていて、眩しくて顔をしかめているような状態から父親を見ている。だから顔はシルエットになってハッキリしておらず、きっと実際の顔よりも少し大きく見えていることだろう。
――まるで浮かび上がっているような顔――
という印象だけだが、父親のイメージはまさしくその印象なのだ。
もう一人の自分がいるのだろうか?
節子が父親の顔を覗き込んでいる表情を思い出すことができる。自分の顔は鏡でしか見ることができないので、ほとんど印象がなかった。特に小さい頃はあまり鏡を見ることがなかったので、その頃の自分の顔の印象というと、父親の顔をしかめながら覗いている顔だけなのである。光が当たっているせいだけなのかも知れないが、顔全体が白くなっているように見えるのだ。
小さい頃は結構表で遊んでいるような活発で男っぽい性格だったので、その頃の自分に対しての印象は、
――いつも日に焼けていたような女の子――
というイメージが強かった。だが、表情を思い出そうとすると、父親の顔を見上げて満面に白さを帯びた顔しか思い出せないのだ。実に不思議なことだった。
父親が亡くなってしばらくは母親も普通だったが、そのうちに少し変わっていった。子供心に母親が夜の仕事をしているのも分かっていたし、化粧が濃くなってくるのも分かってきた。化粧の濃い母親はどうにも好きになれなかった。
「あなたのためにお母さんは頑張っているのよ」
何かあるごとに母親は言い聞かせる。しかし、濃い化粧の顔で言い聞かされても、子供への説得力には欠ける。実際に聞き分けのよかった節子は、自分が聞き分けのいいことがとりえなのを分かっていただけに、母親への反発心を表に出すことができなかった。
それからだろうか、節子は自分の中に殻を作り、その中に入り込んでしまうようになっていった。まわりからは、
「お父さんが亡くなって、母子家庭だから仕方ないわね」
と言われていたようだが、心の底ではまったく違うことを考えていただろう。内容までは分からなかったが、偏見の目で見られているということだけは分かっていた。
――どうせならハッキリといってくれればいいのに――
と思ってもみたが、言葉に出されるのも怖いものだ。
まだ小さかった頃に本当にそこまで考えていたのか、大きくなって不思議に思えるくらいである。
最初に話した時に、すでに懐かしさを感じていた。会話にぎこちなさはあるものの、一生懸命に話をしてくれているところに感動したのもあるが、懐かしさが最大の理由だったように思え、自分が子供の頃に戻ったような気持ちにもなれたはずだ。
子供の頃と今とでは基本的な考え方は変わっていないが、寂しがり屋になったように思う。一番の違いは何かというと、女になったことではないだろうか。女性として男性を見る。
――そばに誰かがいてくれないと――
という気持ちが寂しさを呼ぶのだ。
節子が見る限り、幸雄はとても優しい男性である。とても離婚を経験していそうに思えないのだが、逆に離婚を経験することで人間が丸くなる人もいるだろう。しかし、幸雄に限っていえば、優しさは持って生まれた性格にしか思えない。男臭さも感じるが、包み込んでくれる力強さが男臭さを演出しているからだ。
そんな幸雄が次第に落ち込んでくるのに節子は気を揉んでいた。何でも隠し事することなく接していた幸雄が落ち込んでくると、急に自分の殻を作って、そこに入り込んでしまう昔に戻ってしまいそうだ。何でも話してくれるはずの幸雄が一体どうしたことなのだろう。
ある日を境に変わったのだが、確かあれは、幸雄が誘ってくれたディナーを食べにオリエンタルホテルのレストランで過ごした日のことだった。
あの日は幸雄の仕事が一段落して、久しぶりに二人がゆっくりできる日だった。節子の方は仕事が不規則勤務なので、うまく噛みあう時は連続して会えるのだが、一たびスケジュールが合わなくなると、すれ違いばかりでちょっとの間でも会うこともままならない。
ホテルのレストランなど自分には似合わないと思っていた幸雄だったが、実際に節子と景色の見える窓際の席でワイングラスを重ねている姿はまんざらではなく思える。今まで考えたことがなかっただけで、ほくそ笑んでいる自分を想像するといじらしい。
どちらかというとホテルのレストランというよりは、炉辺焼き屋でお猪口片手に一人でチビリチビリとやっている方が似合っていると思っていた。
――きっと相手がいるからだろうな――
しかも相手が節子であれば尚のこと、今までの自分を変えることができるのではないかと感じたほどだ。
ほろ酔い気分の中、ピアノの生演奏が奏でられている。やはり生演奏は迫力を感じる。
テーブルの上に飾ってある赤い一輪挿し、花の種類には詳しくない幸雄なので、それが何であるかは分からないが、夜景の見える一面の窓ガラスに、室内の明かりが当たって反射した中での真っ赤な色が、渋めのコントラストを描き出している。
いつもより痩せて見えるのはきっとまわりが薄暗いからだろう。お互いに相手が痩せて見えるようで、元々スリムな二人なだけに、それほどの違和感はない。
――こういうところではどんな会話をすればいいのだろう――
お互いに相手が話し始めるのを待っているようである。まわりから見ていると、
――なんてじれったいんだろう――
と思われることだろう。一言も喋ることなく時間だけが過ぎていくかと思いきや、幸雄は窓の外の景色を、節子はピアノのメロディを、それぞれ楽しんでいた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。あっという間だったように思えるが、窓の外を流れる光の線はまるで針のように見え、見続けていると時間の感覚が麻痺してしまう。
あまりにも行動パターンが単純だからであろう。単純なものを見ていると、身体が硬直してしまって、かなしばりに遭うのではないかと思えてくる。背筋にゾクッとしたものを感じ、冷たい汗が流れ出てきそうに思う。その時の幸雄はまさにそんな状態だったに違いない。
「私、もうすぐ誕生日なの。いよいよ三十路なのよ」
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次