短編集89(過去作品)
おどけたように節子は話す。他の男性とほとんど話すことのなかった節子が、まさか自分からおどけたような話し方ができるなど考えてもみなかった。そこには、誰も分け隔てなく話ができるように感じた幸雄がいるからで、幸雄自身も、節子に同じ思いを抱いている。
そのことを幸雄は分かっていたが、節子は幸雄の気持ちまで分かるわけではない。やはり離婚したとはいえ、女性と一緒に暮らしたことのある幸雄の方が相手の気持ちを鋭く理解することができるのだろう。
だが、相手の気持ちが分かるというのも辛いこともある。幸雄の妻だった人もそうだったようだ。
「あなたは単純だから、すぐに分かるの」
と、完全に行動パターンを把握されていたようだ。
節子にもその気持ちが分かってきた。それまで自分が殻に閉じこもっていたので、相手の気持ちを分かろうとしても、目の前にある壁を意識して、通りぬけることのできない感覚を味わっていたようだ。心を少しでも開きさえすれば、明かりはおのずと入ってくる。明かりに見出されるように道が見えてくるということを教えてくれたのは幸雄だった。
節子は急に心変わりのするような女性ではないのだが、少しずつ自分の中で幸雄への気持ちの変化が訪れていることを悟っていた。
嫌いになったわけではない。だが、愛情というものに疑問を感じ始めているのは事実だ。
――僕は、自分の目で見たり、この手で触ったりしたものしか信じないんだ――
と言っていた男性がいたことを今さらながらに思い出した。その人とは以前に、
――付き合ってみてもいいかな――
と感じた人だった。結局付き合うまでは行かなかったが、相手の気持ちに疑問を感じているうちに気持ちにすれ違いが起きていったのだ。とにかくハッキリとしないと気がすまない人だったようで、そこまで徹底しきれなかったのが、別れる原因になったのだろう。
今は少しその時の男性の気持ちが分かるような気がする。確かに幸雄は素敵な男性なのだが、心のどこかにどうしても人を寄せ付けないものがあるようだ。頑なに閉じこもり、まるで心の中の「開かずの扉」のようだ。
幸雄は自分の心の中にある「開かずの扉」の存在に気付いている。
幸雄は、自分があまり記憶力のないことを真剣に悩んでいた。学生時代に暗記物が嫌いだったわけではなく、暗記科目の成績も決して悪いわけではない。記憶力が悪いのではないことが却って悩みを深くしている。
小さい頃に母親に受けた教育が今もトラウマとなって残っているのかも知れない。
「子供のあなたは知らなくてもいいことなのよ」
たったこの一言が今も幸雄の中に燻っている。
――なぜ母親から言われたそれだけの言葉にそれほど過敏に反応するものなのだろう――
幸雄自身にもしばらくその理由が分からなかった。それが分かるようになったのは、離婚した時だった。
母の言葉は自分の子供に対しての言葉ではなかった。いや、自分の子供だからあそこまで冷たく言えたのだろうか。もしそうだとするならば、今まで持っていたトラウマは本物ということになる。
もちろん、離婚に直接関係していることではない。離婚するに際してハッキリしない理由をあれやこれやと考えていくうちに、母親のことも思い出してきたのだ。
その時の母親の顔を思い出すとゾッとする。母親の顔であって、自分のしっている母親の顔ではない。見つめられてかなしばりに遭っているその横から、ニッコリ笑ったもう一人の母親が現われるというシーンを何度夢で見たことだろう。
――今までに一番多く見た夢、そして一番恐ろしいという意識の残った夢――
なぜ恐ろしかったかというと、目が覚めてからも夢の記憶が鮮明で、しばらく放心状態に陥ってしまったからである。
「夢というのは目が覚める前の一瞬に見るもので、だから目が覚めるにしたがって忘れていくものなのだ」
とテレビで学者が話していた。幸雄が夢について感じていることに対し、当たらずも遠からじであった。
――母が二人いる――
という恐怖感は夢を見ていない時でも感じるようになった。
「子供のあなたは知らなくてもいいことなのよ」
と言っていたあの時、あの時こそもう一人の母が現われた時だったのだ。
もう一人の母の後ろにいた男性。それまでに一度も見たこともない人で、しかもそれ以降一度も見かけることのない人だった。
終始、無表情で、母の後ろに立っているだけだった。気配を消そうとしているのが子供心にも分かっていたが、却って気になってしまうものだ。その人を見つめていると、母と同じようにもう一人存在しているように思え、不敵な笑みを浮かべている表情が目に浮かんでくる。
母は当時としては早く結婚し、すぐに幸雄を生んだ。幸雄がまだ十歳にもなっていなかった頃だったので、母が三十歳に近かった頃だった。
離婚を覚悟した時に嫌な予感があった。それはちょうど妻がその時の母親の歳と同じくらいの頃だったことである。しかし、妻には母に感じたような「もう一人の」という感覚はなかった。したがって離婚の理由に浮気、不倫ということがないことは分かっている。
本当はその方がいいのだろうが、それでも理由がハッキリとしないことに気持ち悪さがあった。その時の母親と年齢が近かったというのが最大の理由かも知れない。
両親が離婚するということはなかった。
傍目から見ていると、本当に仲睦まじい夫婦に見えたに違いない。どこに離婚する理由などあるのだろう。あるとすれば知っているのは幸雄だけだったに違いない。
――母の秘密を一人で抱え込んでいる――
秘密がバレれば、間違いなく自分に振り返ってくることは分かっている。事実の重みを感じながら、決して明かしてはならない秘密を抱え込んでいくことが自分の中に大きなトラウマを残してしまった。その重みに耐えながら生きていくことで、ある程度の感覚が麻痺してくるのは否めない。
その犠牲になったのが記憶力である。
――トラウマが引き起こした記憶力の致命的な低下――
なのだ。
一生懸命に考えることをしないからだというのも理由の一つだ。
「問題意識を持っていないから覚えられないんだ」
友達と記憶力の話をした時に言われた。
「問題意識を持っているつもりなんだけどな」
「それを整理しきれて居ないからだよ。整理しきれていなければ、どんなに問題意識があっても同じことさ」
説得力があった。無頓着なところがあるくせに、気にし始めると徹底的に気になってしまう性格は、得な性格ではない。整理整頓ができないことが幸雄にとっては致命的な短所であることには違いないだろう。
離婚の理由は、そんなところにもあるだろう。どんなに言っても性格なので、簡単に変えられるものでもない。ただ、理由がそれだけだとはどうしても思えないだけだ。
幸雄は元々臆病な性格だ。自分が落ち込んだ時などに対処の方法が見つからないことがあるが、それが臆病になる原因なのだ。
二重人格だと言われたこともある。最近付き合い始めた節子にも、そのことはウスウス分かっていた。いつも大人しいだけに、人を観察する力は人一倍である。
――あの日とは虚勢を張っているところがある。でもそれだけに、放ってはおけないわ――
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次