短編集89(過去作品)
と思っていただけに、最初に呼ばれる方がいい。目の前に座って待っているお兄さんに近づいていくと、向こうも立ち上がり、無言で奥の部屋へと招いてくれる。
暗い通路を歩いていくと、狭いのか広いのかまったく分からないほど感覚が麻痺していたのか、目的の部屋まで少し歩いたように思えた。
「いらっしゃいませ。せりなです」
女の子が三つ指ついて待っている。一瞬たじろいだが、相手は顔を上げることなく、俯いたままだ。ここまで連れてきてくれた受付の男性が帰っていく。すると、頭を下げていた女性が頭を上げた。
どんなかしこまった顔をしているのだろうかと想像していたが、表情には満面の笑みが浮かんでいる。救われた気がしたというのは大袈裟だろうか。
すかさず立ち上がったせりなさんは加藤の腕に自分の腕を滑り込ませ導くように狭い通路を一緒に歩いた。
――通路が狭いというのも考え方によっては粋な演出に思えるんだな――
それだけ密着できるからである。
それにしても初めてきたにしては、落ち着いている自分にびっくりしている加藤であった。
――開き直っているのかな――
そうかも知れない。そうでなければこんなに冷静なわけではないだろう。その証拠に前進の震えが止まらない。
部屋に入るとさらに明るく感じ、妖艶な雰囲気が一瞬後悔を誘った。
――とうとうきてしまったんだ――
別に悪いことをしているわけではないのにこの罪悪感、却ってスリルも湧いてくる。胸の鼓動に気持ちも高ぶり、
――どうせなら恋人気分でいよう――
と考えれば気が楽だった。
そういえば何かのドラマで見たことがある。あれは確か二時間ドラマのサスペンス物だったように記憶している。
そこで見た風俗店の中と今正面に展開されている光景がダブっている。テレビで見た女の子よりも加藤から見ればタイプである。
テレビの中の女の子の方が化粧も濃く、いかにも風俗嬢といった大袈裟さから、一瞬風俗店に対し偏見を持っていたに違いない。こうやって目の前で見る女の子はまだあどけなさが残っているようで、恥じらいが感じられる。恥じらいのある女性がタイプである加藤にとっては嬉しかった。
ドラマでの会話を思い出していた。店にやってきたのはもう五十歳をはるかに超えているような男性で。女の子から見ればまるで父親のような感じだった。女の子からすれば父親のイメージを持った男性に惹かれていくのも無理のないことで、アットホームな雰囲気がブラウン管に広がっていった。
少し大袈裟なセットが気になったが、シーンが進むにつれ、女の子もいじらしく感じられるようになってくる。男性もあまり喋る方ではなく、黙々と受けるサービスに表情一つ変えることなく彼女を見守っているようだった。
結局男性が途中で制して、サービスが最後まで終わらなかったという設定だったが、
「私がここに来るのは、女の子とお話がしたいためなんだよ。なかなかおじさんくらいになると君たちくらいの女の子と話はおろか、近づくこともできないからね」
お互いに簡易ベッドに座って、片手には缶コーヒーといったくつろいだシーンが繰り広げられている。タバコをゆっくり燻らしながら話をしているのだが、女の子はまるで父親に縋るように寄り添って話を聞いている。
「そんなことないんじゃないですか? 世間にはおじさん好きっていう女の子もいるんじゃないかな?」
女の子は自分のことを言いたいのだろう。
「いやいや、なかなかそうもいかないね。若い娘にはお金が絡むからね」
悲しそうな顔になる初老の男性に女の子がしがみついているシーンは、見ていてほのぼのさせられた。それを見ていたから、風俗に対して一瞬であるが持ってしまった偏見が少しだけ解放された気がした。
――お話だけをしに来るって人もいるのだ――
と思ったが、この異様な雰囲気の中で短い時間とはいえ、恋人気分に浸ることができれば、お話だけをしに来る人の気持ちも分かる気がする。
これは本で読んだ話だが、風俗嬢相手にしてはいけないとされる話もあるようだ。例えば家族やプライベートな話、そしてどうしてこういう仕事をしているかと言った、気に障るような話しかりである。
しかし加藤にはそんな心配はない。恋人気分でいる相手にそんな話をするはずがないと思うからだ。それもひと時だけの恋人である。ただ、せりなが話すことは癒しになる。仕事のことを聞かれても、
「大変ですね」
という一言に本当なら営業スマイルを感じるのだろうが、ここにいる限りでは、そんなものを感じない。
彼女たちのことを少し偏見の目で見ていた自分が恥ずかしい。どうしても風俗という言葉を聞くと、
――お金で自分を――
と思ってしまって、真面目に生活している人と違う線を引いてしまう。しかしどこにそんな線が存在するというのだろう。もしも同じ考えの人がいて、その人も線を引いているとするならば、きっと同じ線ではないに違いない。
今までにそんなことを考えたこともなかった。それが知らず知らずのうちに偏見の目を作っていたのだろう。そう思うと初めて知った風俗の世界というだけでない、大袈裟かも知れないが、何か知らない世界を知ることの素晴らしさのようなものを知った気がした。
その日、どんな話をしたのか加藤は覚えていない。時間はあったはずなのだが、そんなに長くいたようにはとても思えない。
「どうだった?」
と相川に聞かれて最初に答えたのが、
「あっという間だった」
という一言だった。
「そうだろうな」
相川もそれ以上のことを聞こうともせず、ニコニコ笑っていた。その顔はすっきりとしているように見え、同じ顔を自分もしているのだろうと感じる加藤だった。
お金もないので次に行くにもかなり後にあるだろう。しかし、もう一度せりなに会ってみたいという気持ちを強く持ったのは事実である。女性に対しての見方も少し変わったかも知れない。
なかなか出会いがないと思っていたのは、自分が積極的にならないからではないかと感じたのも、その時からだった。確かに女性と何を話していいか分からず、話題性に乏しいのは事実だ。しかし何も女性に合わせることもない。
――どんな些細なことでもいいからちょっとした雑学めいたことを知っているだけで感動してくれる女性もいるのだ――
覚えていないが、せりなとの会話の中で感じたいくつかのことの一つだったはずだ。あっという間だったが、後から考えて少しずつ思い出すことで、あっという間ではなかったことを認識していた。
出会いというと最近は少し怖いものがある。ネットが普及して、さらには携帯サイトによる詐欺行為が頻繁な中、純粋な出会いを見つけるのは難しい。
「皆どこで出会うんだろうね?」
と言っても、
「出会いはどこにでも転がっているさ。要は出会いに気付くか気付かないかの違いだ」
という人もいるが、どうにも納得がいかない。出会いの多い人には、それなりに何かあるのだろうとしか考えられない。
せりなとの会話で、
――出会いって、こんなにも気持ちに余裕ができるものなのか――
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次