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短編集89(過去作品)

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 という言葉も今は昔、学生時代の甘えた気持ちを払拭するために誰もが通る道は、思ったよりも孤独できついものだった。
 学生時代に友達が多かっただけに、社会に出ての孤独な毎日は、さすがに自分を不安にさせるに十分だった。特にいろいろ相談に乗ってあげたり乗ってもらったりなどという時間の使い方が好きだったが、卒業してしまうと、皆それぞれの世界で必死なのである。
 学生時代と社会に出てからの一番の違いは、
――時間的にも精神的にも余裕がなくなることだ――
 しかも学生時代では最上級生としての気持ちが強かったが、社会に出れば、その瞬間から一年生である。自分の中でしっかりと切り替えができないと、頭の中で分かっているつもりでも、余裕のない世界では容赦なく襲い掛かってくる社会の厳しさに押しつぶされないとも限らない。
――鉄は熱いうちに打て――
 と言われるが、会社の先輩が乗り越えてきたように、順応できる時に打ってしまわなければ、冷えて硬くなってしまうとなかなか修正するのは難しくなってしまう。現在の加藤があるのも、その時に何とか順応できたのがよかったからだろう。
 大学を卒業した時の加藤は、それなりに自分に自信があった。小さな自信だったが、自分の中のところどころ節目になるようなところに自信があったので、不安ではあったが社会に出ても何とかなると思っていたのだ。
――あまりまわりにすぐ順応する方ではないのに、よく乗り越えられたものだ――
 と後になってからでも、感じることができる。
 相川も同期入社だった。彼を最初に見た時に、
――彼はすぐにやめちゃうんじゃないかな――
 と感じた。見た目に軽そうで、入社式の取締役の挨拶という一番厳粛な時に、落ち着きのない態度に見えたからだ。皆静粛に聞いていただけに、一人だけキョロキョロしていては目立つというものだ。演台で挨拶をしていた取締役の人もさぞかし気が散ったころだろう。
 だが、彼の実力は落ち着きのなさを考慮に入れても余りあるものだった。すぐに業務に順応していたのだ。仕事になるとまるで人が変わったように真剣な顔つきになり、先輩からの教育や引継ぎも一番スムーズにこなしていた。最初は要領がいいのかなと感じていたが、それだけではない。ここ一番の集中力はさすがと思わせ、まるで職人のような切れ味を発揮することで、上司からの信認が新入社員の中で一番厚かった。
 そんな相川が一番の友達に選んだのが、加藤だったのだ。加藤は新入社員の中でもどちらかというと目立たないタイプ。なかなか順応できなかったが、何とかついていくのがやっとだった。
 後になって、
「どうして、俺を最初に友達にしようと思ったんだい?」
 と聞くと、
「君の中に何となく自分の忘れかけていたものを思い出させてくれるように感じたからだよ。会社に入ったって仕事ばかりじゃないんだからね。いろいろな可能性を模索したいって思うんだ」
 分かるような気もするが、考えれば考えるほど分からなくなりそうな答えだった。
 それからしばらくすると、実力を認められた相川は、プロジェクトチームのメンバーに選ばれたりして、加藤とは違うセクションで働くことになった。それだけ忙しくもなったというものである。
「なかなか充実しているよ」
 と言いながら、心なしかやつれているのを見ると、
――俺にはできないな――
 と心の中で感じる加藤だった。
 相川は慣れたように歩いている。
 狭い路地の両側にネオンサインが煌びやかに光っている。店を行き来する派手な女性の姿も見えるが、男性がそれぞれ無口で立っているのも見ることができる。
「こういうところは一人で来ない方がいいんだよ。呼び込みの人が多いだろう? 最初から店を決めておくならいいんだが、意志の弱い人が一人で歩くもんじゃない」
 そう耳打ちしてくれた。確かに呼び込みの人が店の入り口に一人ずついる。賑やかというわけではなく、店の前まで来るとその迫力に顔を見ないわけには行かなくなる。
――目を合わせない方がいいな――
 と思いながら歩いていた。
 呼び込みの連中にはそれぞれで暗黙の了解があるのだろう。静かに店の前にいて、迫力満点なのだ。熱い視線を感じながら、ただ相川のあとを歩いていくだけだった。
 目指す店は路地の中間くらいにあるようだ。
「ここだよ」
 そういうと、相川は狭い階段を上がっていく。店の名前は「ロングブーツ」、それにふさわしい看板が店の前に立っていた。
 受付をすべて相川に任せ、待合室に入ると、そこは結構ちゃんとした部屋のようになっていた。
 いくらの店なのか分からないが、風俗に来るのだから大体の覚悟はしてきた。ちょうど先日給料日だったこともあって、
「今日はお金いくらか持っているよな?」
 と耳打ちされて、答えた金額に指を丸めてOKサインを出した。内心で、よかったのか悪かったのか複雑な気分だったが、とりあえずここまでくれば相川についてくるしかなかった。
 待合室に入り、店内を見渡してみる。暗い部屋に置かれたソファーにふんぞり返ってように座っている相川に余裕は見られるが、次第に加藤は、自分で不安を覚えていくのを感じていた。
「そんなに緊張しなくたっていいさ。別にとって食われるわけじゃないんだからね」
 とは言うが、そういう意味ではない。
――お金を出してこんなところに来ちゃっていいのかな――
 という、いわゆる罪悪感を感じるのだ。
 ストレス解消というのは、お金をかけてもいいように思う。
――スポーツだって、何をするんだって、大なり小なりお金が掛かるではないか。風俗だって同じこと、キチンとした営業権を持って開いている店なんだから、気にすることなどないんだ――
 と自分に言い聞かせいたが、それでもこの待合室の独特な雰囲気には圧倒されて、言い聞かせていた気持ちをグラリとさせる。特にタバコを吸わない加藤は、タバコを吸っている相川を見て少し不安を感じるのだ。
――いつもにくらべて落ち着きがないな――
 吸い込み方がいつもよりも早い。部屋が暗いからかも知れないが、真っ赤に光って、何回かですぐに一本が終わってしまう。いつもなら、
「身体に悪いからな」
 といいながら勿体ないにもかかわらず、明らかに途中までと思えるところで吸うのをやめているのに、その日だけは根本に近いところまで吸っている。
 足元を見ると心なしか震えていて、貧乏揺すりに見えなくもない。緊張からなのか、それとも期待からなのか分からないが、そんな姿を見せられれば初めて来た加藤としても不安にならないではない。
 これがまったく知らない人が目の前に鎮座しているのであれば気にならない。相手がいつも冷静沈着に見え、少々のことでは緊張しない相川だから思うのだ。
――本当に来てよかったんだろうか――
 という気にさせられてしまう。
「最初のお客様、どうぞ」
 後ろから少し男性にしては声の高いお兄さん風の男の人に声を掛けられた。
 相川は加藤の方に向って指を差す。まずは自分なのだ。
――待合室でたった一人待たされるのもたまらないな――
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次