短編集89(過去作品)
いつもに比べてアルコールも料理も腹八分目くらいにして店を出た。夜の帳がすっかり下りた街は、ネオンサインの煌びやかな「眠らない街」へと変わっていた。
このあたりは歓楽街に当たるが、居酒屋が少し駅から離れたところにあるので、少し歩くことになる。
相川は加藤が着いてきていようがいまいが、急いで路地を抜け歩いている。いや、まるで目が背中についているとでもいうのだろうか、きっと加藤がついてきていることを分かって歩いているに違いない。
遅れてはならないと思い、急いで相川の後ろにくっつくように歩いていたが、角まで来ると何を思い立ったのか、相川が立ち止まった。
「加藤、君は風俗に行ったことあるかい?」
「えっ?」
いきなりの問いに、相川の真意を見失ってしまった。含み笑いしたくなるようなことなので、きっとこういうこともあるだろうと思ってはいたが、
――なぜこの場所でわざわざ立ち止まって言わなければならないんだ――
と思わないでもなかった。
しかし、角を曲がって見下ろした先には風俗街と呼ばれるところが横たわっている。あるのは知っていたが立ち寄る勇気もなかった。一人で行くところだと思っていたので、勇気がなければ立ち寄ることのないところである。まったくの別世界だと思っていたが、ここまで間近に見下ろすと、今度は、
――前にも同じような光景を見たことがあるような気がする――
そんなはずもないのに、そう感じるのだ。
相川が無言で歩いていくのを後ろからついていくしかなかった加藤だが、気持ちはすでに高ぶっていた。もちろん童貞というわけではない加藤だが、さすがに風俗には抵抗があった。
最初の相手は風俗嬢にお願いする人がいるという人もいるらしいが、そのあたりが加藤には信じられない。元々それほどもてないわけではない加藤だったが、童貞をなくしたのは二十歳近くになってからだった。
相手がいなかったわけではない。純愛を求める気持ちの強かった加藤に、同じように純愛を求める女性と付き合ったことからなかなか初体験をするには至らなかった。
初体験をできると感じた相手もいなくはなかったが、意識してしまうと付き合いがぎこちなくなってしまうのか、それからすぐに別れてしまう。
「オンナってオトコを感じると、なかなか今までのようにはいかなくなるみたいだぞ」
相川に何度言われたことか。離れていった女性に最初の方は未練を感じ、相川によく相談していた。その頃から女性の扱いになれていた相川がいうには、
「未練があるくらいなら、一回やっておけばよかったって思うことだね。女性に対して未練を残すなんて体力の無駄だぞ」
言っている意味がその頃は分からなかったが、今は少し理解できる。それはきっと女性を知ったからである。
相川の初体験は早かった。中学時代だということである。最初相手をしてくれたのは近くに住んでいた女子大生だということだが、中学の頃からませていた相川に、女性大生が可愛く感じたらしいのだ。いくらませているとはいえ、童貞の中学生が女子大生の前に出れば完全にまな板の鯉状態である。
「俺、結局何もできなかったんだよな、あれもこれもって頭の中で描いていたことがすべて相手にリードされることで崩れちゃって、気がつけば時間だけが経ってたな。最後はまったく覚えていないんだ」
といいながら悔しがっているかと思えばそうでもない・
「いい思い出だよ。まあ、初体験なんていうのは、大なり小なり、あんなものなんだろうね」
その話を聞いた時、加藤はまだ童貞だった。話を聞いてピンと来るはずもないが、頭のどこかに残っていたのだろう。初体験のあと、同じようにあっという間に終わっていたことに気付き、最後を覚えていないというのも同じだった。だからこそ、相川の話を思い出したんだろう。
加藤にとって相川の話は教訓に近かった。これから体験することを彼が話してくれているように思うからである。
加藤の初体験の相手は、加藤よりも年下だった。それまでに何人もの女性とプラトニックラブを演じてきた加藤だったが、ほとんどは同級生だった。なぜか同級生がまわりに集まっていたのだ。
大学三年生の時、アルバイトで知り合った女性、初体験の女性であるが、彼女は一年生だった。浪人しているので一つ年下だけど、浪人しているといろいろな体験ができるのか、雰囲気はお姉さんタイプだった。
デートしていても、主導権は彼女にある。今までにそんなタイプの女性はいなかった。女性に控えめな人が多かったこともあって、どちらかというと引っ張っていくことの苦手な加藤とぎこちなくも不器用な付き合い方をしていたことだろう。
ぎこちないが、これが女性との付き合い方だと真剣に思っていた加藤だった。しかし女性というのは、それだけでは満足できないのか、いろいろ求めてくるものなのかも知れない。そのあたりで付き合っていく上で距離が出てくるに違いない。
距離を無理に縮めようとすると、却ってぎこちなくなる。すぐに気持ちが顔や態度に出てしまう加藤を、相手は露骨に感じてしまうのだ。少し怖く感じるのかも知れない。
――こんなはずじゃないのに――
とお互いが感じることだろう。それでも執着心の強い加藤と、怖くなれば冷めてしまう女性との間に溝が生じるのは仕方のないこと、別れもそのあたりから来るのだろう。
結局プラトニックだけで終わって、自分だけで後悔する。理由が分からないことに不満が募り、そのまま女性不信に陥ってしまった時もあった。
だからこそ相川は少しきつい冷めた言い方をするのかも知れない。敢えて優しい言葉だけでは気付かないこともあるだろう。きつい言葉を言われても、それでも付き合っているということは、それだけ相川から学ぶことも多いということである。
相川も同じらしい。
「加藤といるといろいろ勉強になるよ」
どういう意味かは本人にしか分からないが、それでも素直に嬉しかった。こちらはこちらで勉強させてもらっているのに、相手も勉強になっている。これって相性があっている証拠ではないだろうか。
それからというもの、なかなか女性と付き合うまではいかなかった。知り合いことはあったが、友達として相手は考えているので、なかなか付き合うまではいかない。
相手が友達としての付き合いを望んでいることに気付かず、まるで恋人気取りになってしまい、相手に諭されることもあった。
「私はあなたを友達以上に思ったことはないのよ。ごめんなさいね、あなたを彼氏とは思えないの、思ってしまうと、すぐに別れが来そうな気がするのよ」
と言われる。
付き合いたくないための言い訳なのか、それとも言葉にウソはないのか、その真意を見極めるだけの目がその時の加藤には備わっていなかった。
今備わっているかといわれれば、ハッキリ備わっていると答えられないが、少なくとも学生の頃とは違うと思っている。気持ちに余裕ができたわけではないが、学生から社会人になることで、まわりを見る目が変ってきたのは事実だからだ。
自分が変わったのと同時にまわりが自分を見る目も当然変わってくる。甘えた目で見られることはなくなったが、学生時代と違い、許されないことが多くなっている。
「学生だから」
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次