短編集89(過去作品)
下手なプライド
下手なプライド
加藤信二はその日同僚の相川に会社の帰り誘われた。二人が呑みに行くことは珍しくなかったが、最近では久しぶりだった。加藤の方はそれほど忙しくなかったが、相川の方は仕事が架橋に入っていたらしく、加藤の方から誘うのを躊躇していた。相川の方から
「仕事が一段落ついたので、飲みに行こうぜ」
という誘いがあるのを、心のどこかで待っていたのだ。
「いいよ、俺はいつでも空いているからな」
ウソではない。実際に仕事は楽なのだが、仕事が終わってからのプライベートな時間は、ほとんどフリーである。予定表があるとすれば、そこは真っ白になっている。
加藤も相川も年齢的に三十代を迎えようとしていた。そろそろ落ち着いてきてもいい頃である。落ち着いてくるというのは、彼女ができてもという意味であり、仕事が忙しかった相川は仕方がないとしても、フリーな時間の多い加藤には耳の痛い話でもあった。
いつも仕事が終われば一人暮らしの部屋へすぐに帰っていた。途中寄るとすれば、スーパーで買い物するか、本屋にでも寄って本を買うか、最近では途中にある公園で一休みすることがある程度で、いささか面白みのない生活をしていた。
そんな生活をしていて出会いなどあるはずもない。
相川にしてみれば仕事が忙しくなければ立ち寄るところなどたくさんあるらしい。
――そんな中の一つに連れて行ってくれるのだ――
という程度にしか考えていなかった 加藤だった。
「いつもの馴染みの店で呑もう」
と普通なら声を掛けてくるのだが、その日は少し含み笑いを浮かべているのに気付いたほどで、
「久しぶりに付き合えや」
という程度のあやふやな誘われ方だった。
しかし、足が向った先はいつもの居酒屋で、少しがっかりしたような気がしたのだが、店に入るなり少し雰囲気が違うのを感じた。
そこの店は、駅前にあるわりには、あまり賑やかな店ではない。路地を入り込んでの店なので、少し立地条件としてはよくないが、しかもネオンサインが賑やかというわけでもなく、宣伝効果としてはあまり派手ではない。
「これでは儲からないだろう?」
と相川に聞くと、
「それでもいいのさ、少し頑固なところのあるマスターなので、常連さんでもっているのさ。だから続いている客はそれなりに常識があって、一本筋の通っている人が多いんだ」
と話していた。
なるほど常連の多い店なら、それほど宣伝効果を挙げなくとも客は集まるだろう。マスターが堅物っぽい人だというのは、加藤にも分かった。
店には野球好きの人がたくさん集まっていた。加藤も大学の頃少しかじったことがあったので、話にはついていける。店の常連客のほとんどは、今もいずれかの草野球チームに所属しているらしい。
当然のごとく店は男っ気で溢れていた。野球の話で盛り上がり、アルコールが入ってくると今度は女性があまり来ないこともあってか、下ネタに走ることも少なくなかった。下ネタ系はマスターも嫌いではないらしく、参加しないまでもニコニコと聞いている。とにかくマスターというのは、あまり理解できる性格の人ではないらしい。
その日、相川と加藤が店に入ると、他に客はあまりいなかった。この店の常連さんには建築関係の人が多いので、店への出勤時間は不規則である。たまたまその日は他の人たちは忙しい日に当たったのだろう。
だから、人が少ない店に入ることも稀ではないのだが、その日はそれでもどこか雰囲気が違っていた。
席は暗黙の了解で大体指定席が決まっている。つまりその人がその日来なければ、その席は終日空席になっているということだ。これも常連の多い店の特徴といえるのではないだろうか。
「いらっしゃいませ」
入って席に着くと同時に甲高い声が店内に響いた。
――女性だ――
アルバイトでマスターが女性を雇い入れたに違いない。カウンターの中にマスターの姿はなく、後ろから聞こえてきた女性の声に二人とも同時に振り向いたのだった。
「マスターは今買い出しに行っておられます。もうすぐ帰ってこられると思いますので、それまで待っててくださいね」
と微笑んでいた。
おしぼりを手渡す時、
「失礼します」
と一声掛けてくれた。
――丁寧な人だな――
と苦笑いする加藤に対し、相川は含み笑いをしていた。何かを分かっていての含み笑いのようで、女の子もそれを分かっているのか、含み笑いで返していた。何か二人だけの暗黙の了解があるようで癪に触ったが、初対面なので、それほど気にすることでもないと感じていた。
おしぼりで手を拭いていたら、いつの間にか、目の前にビールとグラスが出された。
「よく分かったね」
と相川が言うと、
「何となく分かりました。おビールでよろしいんですよね?」
「ええ、結構です」
まずは乾杯したいと思っていただけに、当然ビールである。ビール瓶を前にして考えていた加藤は、
「今までに居酒屋さんでアルバイトされたことはあったんですか?」
「いえ、ありません。今回が初めてなんですよ。でもお客さんを相手にする仕事もしていたので、人と接するのは好きなんですよ」
それを横で聞いていた相川は二度、三度と頷いている。
「名前は?」
「有希です。有名の有に、希望の希です」
「いい名前だ」
相川はまたしても頷いている。
加藤は二人のやり取りを漠然と眺めていたが、完全にできてしまった二人の世界に入り込むことはできない。それに気付いた相川は、有希に会釈をすると、有希を仕事に戻らせ自分も加藤のところへ戻ってきた。
「まるで知り合いみたいに気が合ってるね」
少し皮肉めいた言い回しだが、そのことに触れることなく他の話をし始めるとこなど、さすがと思わせた。相川は話を逸らすのも上手である。
「仕事が忙しかったからね。こういう時間もいいものだ」
と相川はいうが、まだ忙しさは終わっていないはずだ。一段落ついたとはいえ、気が抜けないように思えた。
「忙しい時ほど、誰かと呑みにいく時間を作りたいんだよ。暇になるとほしくなるのが自分の時間なんだ」
何となく分かるような気がする。人間忙しい時に気を抜くと体調を崩しがちである。だが、どこかで息を抜かないと息苦しくて仕方がないだろう。
――気を抜くんじゃなくて、息を抜くんだ――
と考えれば相川の気持ちも自然と分かってくるというものである。それは普段から自分の時間を大切にしたいと思っている加藤だから分かるというもので、相川も加藤だから呑みに行こうと誘ったに違いない。
息抜きにも人それぞれで、一人で英気を養う人もいるだろうが、相川の性格から行くと一人でいるタイプではない。ひょっとして今まで誘われた中でも、息抜きを目的にした時もあったに違いない。そういえば、やけにテンションの高い時もあったではないか。
今までは居酒屋に一緒に行くだけだったが、
「今日は呑むのは少し控えた方がいいぞ」
と言われた。
「どうしてだい?」
と聞くと、何も答えずに不適な笑みを浮かべていた。ゾクッとしないでもなかったが、相川の性格からして、悪いことをたくらんでいる顔でないことは分かっていたので、その日加藤は言い知れぬ期待に胸を膨らませていた。
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次