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短編集89(過去作品)

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 と感じたのも事実で、気持ちだけがまるで幽体離脱したかのようである。しかも眠っている間のことは覚えておらず、その光景を見ることで思い出すのだというのが小説の話だった。
「人はそれをデジャブー現象と呼ぶ」
 と書いてあったのが印象的だ。デジャブー現象には、それなりに前兆があってこそ成り立つものだと考えれば、不思議なことでも何でもない。ただ、夢というもの自体の神秘性の深さには、どこまで行っても理解しがたい不思議さが付きまとっている。
 思ったとおり、湖のほとりに出かけて最初に感じたのは、
――どこかで見たことのある景色だ――
 ということだった。しかも、湖には霧が掛かっている。しかも匂いのないはずの霧に、匂いを感じるのだ。
 それは決して綺麗な匂いではなく、「臭い」である。懐かしさを感じる臭い。まさしく線香の炊ける臭いであった。
 着いた時間は昼過ぎで、霧は出ていなかった。綺麗な緑の森に囲まれた実に静かな湖、爽やかな風が頬を撫で、森の木々をウェーブが掛かったかのように撫でながら流れていく。湖面に広がる波紋は、一定の流れを作っていて、爽やかさを演出している。まさしくこういうところが一番気持ちを癒してくれる場所に違いなかった。
 一周して、その日は疲れもあってか、ホテルの部屋に入って、表を見ているだけだった。実際に翌朝は軽く霧が掛かっている光景を想像したが、霧の深さは完全に想像の域を超えていた。
 霧の深さは、一寸先も見えないほどだった。
「まるで、生まれた時みたい」
 香苗がおかしなことを口走る。
「どういうことだい?」
「生まれた時って誰もが記憶にないでしょう? でも、本当は記憶の奥に封印されているだけらしいの。お母さんのお腹の中のこともね。だから一寸先が闇っていう状態を見るとそのお話を思い出してしまうの」
 まるで時代を繰り返しているという感覚に陥っていた誠である。皆が同じ光景を、同じところを通ってこの世に生を受ける。すると死ぬ時も、同じように皆同じ光景を通って、いわゆる「あの世」という世界に召されていくように思えた。香苗と出会って神を信じるようになった誠だったが、口に出さなくとも、香苗には神を信じさせる何かがあることを時々思い出させてくれた。
 死について考えたことは何度もある。特に神を信じるようになって、死の世界を思い浮かべると、この世での行いがそのままあの世に引き継がれるように思えてくる。
 きっとほとんどの宗教が同じ考えなのだろう。だからこの世で神を信じることによって救われたいと感じるのであって、そのまま引き継がれる精神をしっかりさせておきたいという一心に違いない。
 そこにつけ込む新興宗教がある。金儲けの道具に宗教を利用しようとするおかしな連中が現われる。お布施と称して金を取り、戒律で縛ることで、余計な考えを起こさせないようにする団体もあるだろう。
「そんな連中がいるから、まともな宗教は白い目で見られて、肩身の狭い思いをするんだよ」
 と言いたい人も多いはずだ。しかし、宗教がらみで昔から戦争が起こってきたという事実を拭い去ることはできない。歴史を勉強している人の中に宗教を毛嫌いする人もいるだろうが、それは仕方のないことだと誠は思う。ただ許せないのは今の世の中に蔓延る宗教の名を借りた悪徳商法だ。
――嘆かわしい時代になったものだ。せっかく宗教の自由が認められているというのに――
 自由の代償と一言では言い表せないのだ。
 深い霧を見つめていると、昨日見ているので、まわりがどれほどの広さだったか分かっていたはずなのに、まったく分からなくなってしまっている。ちょっと前に進んだだけでも、かなり歩いたように感じるのは、後ろを振り返る勇気がないからだ。
 後ろを振り返る勇気がないのは、振り返ってしまうと、前後左右がまったく分からなくなり、自分のいる場所から逃れることができなくなり、まるで底なし沼に嵌ってしまったような感覚に陥ってしまう。一歩踏み出して、そこには本当にしっかりとした大地があるのかどうかすら信じられなくなってしまう。動くのが怖くなる感覚である。
――一歩踏み出してしまって、そのまま三途の川を渡ってしまったらどうしよう――
 ありえないことだが、霧の中ではありえないことでも簡単に考えられてしまう。
 止まらない震えと共に汗を掻いていて、究極の恐怖心が身体を包んでいたが、その時は次第に霧が晴れてくるのを感じた。
――ああ、助かった――
 気がつけば眩しさの中で横になっていた。目を開けようにも眩しくて、思わず手の平を目のところに持っていって庇を作ったくらいだ。太陽を避けながら目を開けると、何人もの人が覗き込んでいるのが見える。
「ああ、よかった」
「大丈夫かい?」
 それぞれに口にしている。一瞬記憶喪失状態になっていたようだが、太陽を避けて見ている空は、雲ひとつない真っ青な空だった。
 思わず目を閉じてみる。瞼の裏が一瞬真っ赤になっていた。その後に感じたのが、
――目の前が真っ白だ――
 という思いで、せっかく真っ青な空が見えるのに、立体感のある真っ白な霧が瞼の裏にへばりついて歯なれないのだ。
「あれだけ濃密な霧が出ていたのに」
 と思わず誠が呟くと、
「ああ、確かに朝の霧はかなり濃かったですね。でもあれから数時間が経っているので、すっかり霧も晴れてますよ」
「僕はどうして、ここに?」
 まわりを見渡すと、ホテルがすぐそばに見える。霧が濃くて思わず少し歩いてしまった距離そのままで、きっとその場で気を失ってしまったのだろう。
「お連れの女性の方が、あなたのいないことを気にされて、朝から探していたんですよ。一体どこにいたんですか?」
「それが、霧の中を少し歩いたまでは覚えているんですが、きっとそれから気を失ってしまったんじゃないかと思うんです」
 感じたままを話した。
「おかしいですね。霧はとっくに晴れていたんで、探し始めてすぐに見つかりそうなものなのに、ずっと、ここには誰もいなかったんですよ」
 話を聞く限りでは、まるで急にどこかからか飛んできて、この場で倒れていたような感じである。誠自身にはとても信じられないし、まわりの人にも信じられないに違いない。
 誰かが救急車を呼んだのだろう。サイレンの音が聞こえる。警察からも事情聴取くらいは受けるだろうが、答えられることは一つだけなので、それほど気になることではない。ただ、夢に見ていた霧の深い湖のほとりが本当にここだったのか、そればかりが頭の中で駆け巡っているのだ。
「本当にどこにいたの?」
 一応の事情聴取を受けると、疲れているだろうからということですぐに部屋に返してくれた。こんな形で香苗と二人きりの時間ができるなど不本意で、まさかと思うようなできごとだったが、香苗の顔を見ていると心配させてはいけないという思いが強くなった。
「それがよく分からないんだ。きっとどこかで夢でも見ていたんじゃないかな」
 としか答えられないが、それが本当に香苗のほしがっている答えだとは思えない。どこか好奇心の固まりのようなところのある香苗に、さっきの状況をどう説明すればいいのだろう?
「何か臭いがしなかった?」
「臭い?」
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次