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短編集89(過去作品)

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「何か芸術的なことをしているの?」
「ピアノをしているのよ。たまに自分で曲を書いてみることもあるわ」
――やはり――
 心の中で呟いた。創作することが好きな誠は、特に芸術的な創作に造詣が深い。小学生の頃、彫刻が好きで、下手なくせに家でも作っていたりした。
 もっとも下手なのは自覚していたので、誰にも話すことはなかったが、香苗になら話しても恥ずかしくなかった。
「何かを作るのってエネルギーがいるけど、それって、消耗してもまた新しく作られるから新鮮なものなのよ」
「まるで献血みたいだね」
「ええ」
 おじさんが話していたっけ、
「献血って血を採られるだけのように思うだろうけど、人間の血液は次から次に作られるので、血液が入れ替わって新鮮になるんだよ。だから献血はした方がいいんだよ」
 と言っていた。実際に献血手帳も見せてくれたし、血液型がAB型ということで貴重なことも献血を促していたらしい。特に社会貢献に関しては他の人よりも気にしているようだったので、献血もおじさんにとっては、社会貢献の一環だったに違いない。献血とは一番手近な社会貢献である。
 香苗と話していると自分の血液がどんどん新しいものに生まれ変わっていく気がする。すべてが新鮮だった。
 それまで閉鎖的だった気持ちが、次第に晴れてくる。
 富士山などのように綺麗に見えるものも、実際にその場にいればその美しさを感じることはない。全体を見渡すことができれば、自分の気持ちがどこにあるのか分かるというものだ。閉鎖的だったのは、自分がその場の真っ只中にいることに気付いていないからではないだろうか。気付いているつもりで、それ見えているものがすべてだと思い込んでしまう。
――木を見て、森を見ない――
 という言葉があるが、まさしくその通りである。
――一本の木を隠すには、森の中に紛れ込ませればいい――
 という言葉があるが、曖昧な考えを閉鎖的な考えで押し込んでしまうのは、無意識のことであった。
 そんな違和感を香苗がすべて取り払ってくれそうである。人との出会いがこれほど精神的に余裕を与えるなど思いもしなかったが、ある意味多感な時期であり、成長過程であるということも影響しているに違いない。
 香苗と話をしていて、ある日不思議な言葉を話したことがあった。その言葉に聞き覚えがあり、最初いつ聞いたのか、ハッキリと思い出せなかった。
 その言葉とは、
「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作ることなり」
 というものだった。唐突だったので、どうしてそんな話をしたのか聞き正そうとしたが、口を真一文字に結んでいて、訊ねても答えが返ってきそうな気がしなかった。
 まず頭に思い浮かべたのは、おじさんが亡くなった時のことである。なぜおじさんの事件を思い浮かべたのかその時にはよく分からなかった。すべておじさんが悪いということで片付けられてしまったように思えて理不尽な思いが募ったからだろうか。
「知恵」という言葉が実に漠然としていることに気付いた。悪魔の持つ知恵、悪魔のような知恵、自分が助かりたいという思いで利害関係が一致すると、結局誰か一人に罪を負わせる形になることもある。
 あの時も事故後の会社の対応に対し、漠然としてではあるが、理不尽な気持ちを抱いたのを思い出した。
――世の中って、自分のことばかり考える人ばっかりだ――
 と自然に思うようになったのも無理のないことだった。
――神も仏もあるものか――
 と思っていたが、知恵に打ち勝つのも神ではないかと思うようにもなっていた。しかし実際に宗教は無数にあり、どの神が正しいのか信じられるのか分かるはずもない。特に昨今のカルトな新興宗教団体による事件など、ひどいものである。中には集団自殺などあったりと、自殺を認めない宗教もあると思えば、正反対の行動を取る団体もある。これでは信じろという方が無理である。
――心の中で思っているだけでいいんだろうな――
 と自分だけの神様を想像することにした。誰からも中傷を受けることのない都合のいい神様である。
 神様の顔を思い浮かべると出てくるのはおじさんの顔だった。事故で亡くなったとはいえ、誠にとってはカリスマ的な存在といえる。いつだっておじさんは誠にとっては手本だった。たった一度もミスによってこの世を去ってしまったが、もう二度とミスを犯すことのない世界から、じっと見守ってくれているのだ。
 おじさんにとって誠とはどんな存在だったのだろう。
 おじさん自体、あまり友達の多い方ではなかったようだ。仕事が忙しかったこともあってか、男女とも友達は少なかった。
「誰かいい人でもいればいいんだけどね」
 母親がおじさんの話をする時は、縁談の話が多かった。あまり出会いがないくせに、縁談を持っていっても断るらしい。
「まだ結婚とか、そんなことを考える年齢じゃないよ」
 と言っていたが、
「何言ってるの。こういうことは出会いなのよ。すぐに結婚しなさいって言ってるわけじゃないんだから、軽い気持ちでお付き合いするくらいでいいのよ」
「それじゃあ、相手に失礼じゃないですか?」
 母も極端に楽天的だが、おじさんも少し固いかも知れない。薦める方と、薦められる方とでは、まるで立場が逆だ。これではなかなか話が進むはずもない。
 しかし、それも無理のないことだった。おじさんが亡くなってからハッキリとしたことだが、おじさんにはずっと付き合っている女性がいたのだ。いや、厳密に付き合っていたかどうか、ハッキリとしない。葬儀に現われたその女性はおじさんのことが好きだったらしいが、おじさんが本当に好きだったのかどうか、亡くなってしまった後では確かめようがない。
「具体的に結婚のお話が出たことはありませんでしたね。私の方から話題にすることはありませんでしたから」
「どうして? まだ結婚は早いと思ったの?」
 おじさんのお母さんにそう聞かれて、
「そういうわけではなかったんですが、あの人の重荷にはなりたくなかったんですの」
 どうやら、彼女は控えめな性格のようである。もっとも見た目大人しそうで、少し豪快なところがあるおじさんとお似合いではないだろうか。そう考えていたのはその時、誠だけではあるまい。
 彼女はとても華奢だった。喋る言葉もまるで蚊の鳴くような声で、聞いていて今にも泣き崩れてしまいそうに見えた。しかし芯はしっかりしているのか、崩れることもなく、神妙にその場を過ごしている。
「少しあの子のこともお聞きしたいわ」
 叔母さんが彼女にそう話していた。
「あの子、家にいる時はあまり喋ることもなく、いつも自分の部屋に閉じこもっていて、何を考えているか分からないことが多かったの。表でのあの子はどんな感じだったのかしら」
 ハンカチを口に当てていた手をしばし胸のところにやって、彼女は話し始める。
「そうですね。あまり喋る方ではなかったかも知れませんね。今の私からは信じられないでしょうけど、ほとんど私からお話していましたわ。あの人といると話題が自然に出てくるんです。映画の話や旅行のお話、意外とお仕事の話をすることはほとんどありませんでしたよ」
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次