短編集89(過去作品)
おじさんの死という事実が自分の中で奥深く根付いていたものを掘り返すことになるだろうということは分かっても、理解できるものではない。とにかく、頭が回らないほど、感覚が麻痺していたようだ。
おじさんがどれほど素晴らしい運転士だったかということは、実際には知らない。話に聞いていただけで、事故を起こしたと言われてもピンと来るはずもない。
翌日、通夜がしめやかに行われたが、人の死というものがまわりに与える影響の大きいことを今さらながらに思い知らされた。
真っ黒な服に真っ黒なネクタイ、女性は皆真っ黒な喪服、それだけでもまったく別世界にいるような気持ちだ。白と黒の横断幕に線香の臭い、これが葬儀の雰囲気なのだ。
一番気が動転している家族を数人の男性が代行して仕切っている。テキパキと仕切っているわりには、それほど目立っているように感じないのは、葬儀という異様な雰囲気の中で「縁の下の力持ち」を演じているからなのかも知れない。彼らだけは見ているだけで、雰囲気を感じ取ることができるのは、初めてのはずの葬儀という雰囲気を以前にも味わったことがあるような気持ちになっているからだ。
――これってデジャブー?
超常現象についてあまり興味はないが、デジャブーに関してだけは、友達と時々話をしている。
「見たことも行ったこともないのに、以前に見たり感じたりしたような気分を味わうことがあるらしい。それをデジャブーっていうんだ」
と初めて友達から聞かされた時、ちょうどデジャブーを感じた。
というのも、その話自体を初めて聞くはずなのに、前にも同じような話をしたことがあると感じたからだ。それを友達に話すと、
「デジャブーを感じる人は、何度も感じるものらしいんだ。感じない人は一度も感じることがないらしいんだが、これって霊感のようなものかも知れないな」
まさしくそうかも知れない。霊感とは話の次元が違うかも知れないが、それぞれの世界で同じところに位置しているものかも知れない。だから、霊感の鋭い人にはデジャブーはなく、霊感がない人がデジャブーを感じるものだと思っていた。
おじさんの使っていた部屋というのに入ってみた。壁にはいくつもの賞状が飾ってあり、どれほど普段は手本になるほどの運転をしていたのか窺い知ることができる。
「人間、魔が差すってことがあるのね」
誠の後ろから、誠の母が賞状を見上げながら呟いた。それを聞いて誠も思わず頷いている。
「惜しい人を亡くしたものだ」
どうやらおじさんの会社の人だろうか、噂をしている。
「でも、本当に可愛そうなのは乗っていた人たちですよね。何の罪もないんですから」
「それを言い出したら、皆被害者だぞ。遺族にしてもそうだし、事後処理をしなければならない我々だってそうだ。特に我々はこれからしばらくは白い眼で見られかねないからな」
中学生の誠には、その言葉の本当の意味を理解できなかった。
同じ会社なのに、犠牲者を無視しての会話にしか聞こえない。確かにそうなのだが、彼らとすれば、言いたくなるのだろう。だが、本当は聞こえるように口にしてはいけないことだった。
誠が人間不信に陥った理由の中には、この言葉も大きく影響しているかも知れない。普段は同じ会社で絶えず顔を合わせていたにもかかわらず、亡くなってしまえばまるで他人事、いくら悪いのは運転していたおじさんとはいえ、これではあまりにも可愛そうだ。
事故が次第に解明されていくうちに、おじさんには不利な状況が生まれていった。というよりも、事故の責任を一人で負わされているようにしか思えない。実際はどうだったのか分からないが、ニュースでの発表にしても、親の噂話にしても、おじさんに責任が集中しているのが分かってきた。
「あれじゃあ、一人悪者ね」
母親のセリフがすべてを物語っていた。もし、誠がいつの時点で人間不信に陥ったかと聞かれれば、この時だったと言えるだろう。
――死人に口なしなんて、本当に虚しいな――
感受性の強い中学時代、異性にも興味を持ち始める頃にもかかわらず、あまりにもショックな出来事だった。自分のことではないので、人によっては、
「そんなに気にすることじゃないじゃないか」
と言うかも知れないが、感じるのは本人である。特に最初の思い込みが歪んだ考えに結びつけば、そこからすべてが違った方向へと解釈が進んでいく。まさしくその時の誠がそうだった。
学校で、友達との会話も減った。家に帰ってから親と会話することもなくなった。
――神も仏もないものだ――
と、本当に自分の中に引きこもってしまった。
特に親に対してはそうだった。おじさんが亡くなってからも家の中でおじさんの噂が絶えない。最初はおじさん擁護の会話だったが、次第に他人事の様相を呈してくると、聞いていても聞くに堪えない内容になっていく。
――大人って自分を守るためにいろいろな対策を考えるんだな――
と感じ始めたのは、事故後の会社の対応である。そのことについて、親が噂していたのを聞いていた。誠の親は、子供が聞いていようがどうしようが、気にすることなく噂話をするような親だったのだ。
――お互いを干渉しあわない――
そんな風潮がまるで友達との噂話を思わせた。
誠もしばらくは人間不信で誰も相手にしないし、そんな誠に近づいてくる人もいなかった。
一年くらい経つと、そんな環境にも少し変化が現われた。学年も三年生になり、一番異性を意識する年齢になっていた。誠は私立中学に通っていて、高校と一貫教育だったために、高校受験を意識しなくてもよかった。普通の成績であれば、そのまま高等部へ進級できるのだが、まわりの環境は変わることはない。それがいいのか悪いのか分からないが、女性に対し興味が出てきた時に受験のことを考えないでいいのはよかったに違いない。
男女共学の学校で、まわりには女性がいたのに、三年生になるまでは女性として意識することはなかった。異性への興味を感じたのは、自分から好きにあるような人が現われたわけではなく、誠を他の人と違った視線で見ている女性の存在に気付いたからだった。
――もしその視線に気付かなかったら、女性に興味を持つのはもっと遅れたかも知れないな――
と思えるほどだった。
彼女の名前は、園田香苗といい、物静かな雰囲気の女性だった。元々、男であっても賑やかな友達がほしいと思ったことはなく、静かに話ができる友達であればいてもいいと感じていたくらいである。
香苗と最初に話をしたのは、視線を感じてからだった。お互いにあまり人と話すことのない者同士、意識をしていない限り、話すことはありえない。女性の視線を感じるなど今までにはありえないことだったので、幾分かの戸惑いもあった。
最初に話したきっかけが何だったか覚えていない。だが、何を話していいか最初は戸惑うはずなのに、話し始めてすぐくらいから違和感なく話すことができた。きっと同じことを考えているのではないかと思えるほど、自分の言いたいことが彼女の口から出てくるのだ。
「同じことを考えていたようだね」
というと、
「そうみたいね。きっと感性も同じなのかも知れないわ」
感性という言葉、芸術家がよく使う言葉だと思っていた。
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次