短編集89(過去作品)
「今まで分かってくれていたんじゃないのか?」
すると理沙子の顔が真っ赤になって、
「一体どんな考えでいたの? 私はあなたの都合のいい女じゃないわ」
話せば話すほどお互いの距離は遠ざかっていく。
確かに理沙子は幸雄のことが分かっていてくれたはずだ。だが、幸雄には理沙子のことがどれだけ分かっていたというのだろう。
「都合のいい女じゃない」
この言葉が胸の奥に去来する。分かってくれていると思っていたので、こちらの気持ちをハッキリと表さなかったことが相手を不安にさせる。なぜそのことに気付かなかったのだろう。
――分かってくれている人に、わざわざ気持ちを口に出していうのは、恥ずかしいものだ――
という考えがあったのも事実だ。分かっていても同じことを絶対に繰り返さないという自信がないほど、相手が分かってくれていることを口に出すのは難しいものに感じる。
理沙子はそれからまもなく幸雄の元を去った。分かっていたことだが、理沙子という女性が自分の中でどれだけの存在だったのかということを、いなくなられて初めてその大きさに気付くなど、ありがちだがこれほど皮肉なことはない。
――もう三十歳になっているんだから結婚して、子供がいてもおかしくないな――
結婚しているとすれば、もう実家にいないだろう。結婚相手が何となく思い浮かんできそうだ。
ネクタイの似合うサラリーマン、背が高くてスリムでめがねをかけた男性が瞼の裏に浮かんでくる。派手ではないが、堅実なタイプで、三行半の理沙子にはお似合いだ。
理沙子自身も身長が高い方でスリムだった。顔も少し面長で、本当に大人しい女性である。
初恋の女性がそのままその人のタイプとして確立されることはよくあることで、幸雄の場合もそうだった。節子を見た時、ドキッとした感覚があったのも、見かけた瞬間に目が合って、視線の厚さに理沙子を思い出したのだ。
理沙子という女性、初恋だっただけに、自分の中で大きくなっていったことを理沙子も分かっていたはずである。その気持ちの強さに怖さを感じていたのかも知れないと今さらながらに感じる。
女性を大切に思う気持ちが別れてから出てきた。
――今なら誰と付き合っても、もう大丈夫だ――
と思った時には、自分のまわりに女性は誰もいない。出会いというものに大切なタイミングは、運も味方してくれなければ駄目だろう。また出会いがあったとしても、そのことに自分が気付かなければどうしようもない。
――僕はどっちだったんだろう――
幸雄は考える。理沙子との「出会い」は、最初に目が合った瞬間に感じた。もう、あれほどの「出会い」は二度とないだろうと思えるほどセンセーショナルなものだったに違いない。
節子がどうして自分から去っていったのか、何となく分かるような気がする。きっと節子には自覚がないだろう。一緒にいることに感じた辛さ、それがどこから来るのか分からなくなり、必死に考えていたことだろう。しかし考えれば考えるほどやりきれなくなったに違いない。そのうち考えることが億劫になり、
――なぜ考えなければいけないんだ――
という結論に達する。
もう、そうなれば本人にはどうしようもない。気がつけば鬱状態に入っていたことだろう。
節子も幸雄と同じように、鬱状態への入り口が分かるのだ。景色がいつもと違って見えてくれば、間違いない。
――あの人の後ろに誰か女性が見えた――
節子が感じたことだ。
まるで守護霊のように見えたことだろう。後光が差していたかも知れない。それが理沙子という幸雄にとっての初恋の人だということが分からないまでも、大切な人であることは察しがついた。
――この人には、過去に付き合った女性のことでトラウマがあるに違いない――
と感じてしまうと、次第に身体から力が抜けてくるのを感じた。
――次第に遠くなっていっても、違和感がない――
幸雄が少しずつ小さく見えてきたのを付き合っている頃から節子は感じていた。
そのことに幸雄は気付いていた。気付いていたが認めたくないのだ。認めてしまえばもう今後二度と、自分の好きになれそうな女性との「出会い」はないと思えてくるからだ。――なぜ、今ここを歩いているのか――
と聞かれる方がどう答えていいか分からない。
――どこへ行っても同じなんだ――
と思っているくせに、足が向くのは初恋の女性の実家だった。
ただ、幸雄は理沙子が幸せな結婚をしているのを見て、安心したいだけなのかも知れない。だが、それは今までの幸雄には考えられない感覚ではあるが……。
今までに落ち込んだ時、漠然と出かけることはあったが、それでもそれなりに理由は納得できた。例えば前の日に夢を見た場所だったり、以前から旅行してみたい場所だったり、また以前に出かけてもう一度行ってみたい場所だったりと、納得できるのだが、今回は理沙子の夢を見たわけでもないし、彼女をイメージしたわけでもない。勝手に足が向うのであって、彼女へのイメージも、昔もままだ。
本当に自分が会いたいのであれば、理沙子のイメージは今の理沙子を想像しているはずである。そのイメージがどうしても湧いてこないのだ。
そういえば理沙子の夢といえば、かなり前に一度見ただけである。もう十年近く会っていないのだから、変わっていたとしても当然で、結婚して子供でもいれば、会っても分からないかも知れない。
――いや、何よりもイメージしてはいけない何かを感じる――
今までにない感覚だ。
駅を降りて懐かしさを感じながら、
――本当に卒業したのかな――
大学時代にしか歩いたことのないところを歩いているのに、まるで最後にこの道を歩いたのは昨日だったかのように思える。懐かしさとは矛盾した考えだが、
――その角を曲がれば赤いポストが――
と感じて曲がると、見覚えのあるポストを中心に、まったく変わることのない景色が広がっている。
――あの時と一緒だ――
大学を卒業して、少ししてからこのあたりに来た時に感じたことだった。このあたりの景色が永遠に変わることがないように感じたのは、きっともう二度とここに来ることはないだろうと感じたからだった。背中から夕日が容赦なく当たっていて、足元から伸びた長い影が印象的だった。
まさしく今も同じである。背中は汗ばむほど暑くなっている。まるで沈む前に最後の力を振り絞っているかのようである。
近くまでくると、黒と白の横断幕が敷かれているのが見えた。理沙子の実家である。
近づいてみると、どうやら理沙子の葬儀が営まれているようだ。弔問客が黒い服で数人訪れている。皆表情はしめやかではあるが、湿っぽい感じはしない。
「彼女、いいお嬢さんだったんだけどね」
一人、見覚えのあるおばさんが話している。向こうは覚えていないかも知れないが、理沙子が、
「私の叔母さんなの」
と言って紹介してくれた人だ。一度だけ会ったことがあるが、おせっかいの好きそうなおばさんというイメージだけがあった。それが強かったので、あまり人の顔を覚えるのが得意ではない幸雄が覚えていたのだ。
作品名:短編集89(過去作品) 作家名:森本晃次