裏表の研究
ただ、闇の世界をそのまま文章にするのは憚られるのか、闇の世界をまるで魑魅魍魎の住む世界として描く作品を純一郎は見つけた。その作品には、今でいう放送禁止用語がこれでもかと書かれていた。いわゆる身体的障害を持った人や、身分的な差別用語だったりする。
それを魑魅魍魎として描くには、街の情景は実に適していた。
住宅問題もまだまだ十分でない都会では、バラックと呼ばれるところ、昔のビルの廃墟になった場所、さらには防空壕の跡の洞穴など、魑魅魍魎が住んでいるにふさわしい場所が、都会にはうようよしているのだ。
しかも、ほとんどの人が、あまり会話をしていない雰囲気がある。今の時代のように、
「眠らない街」
なども存在せず、日が暮れると、街自体も眠ってしまう。
暗闇を魑魅魍魎の住む世界だとすれば、日が暮れてから夜が明けるまでの時間は魑魅魍魎の時間である。同じ場所であっても、お天道様が出ている時は、表の世界であり、日が沈んでしまうと、すべてが闇に包まれ、魑魅魍魎の世界に変わる、実際に魑魅魍魎などいるわけではないので、その時代を支配しているのは、人間である。どのような人間なのかということを小説の中で描くことは、完全に今でいう放送禁止用語に触れるであろう。
だが、それが当時の小説としてウケたことなのだろう。
その頃の探偵小説というのは、まず最初の章で、度肝を抜かれるかのような話を書いている。
「これがどのようにラストに繋がるのか?」
というイメージを持たせるか、あるいは、
「これが殺人の予告のようなものなんだ」
と読者に悟らせるかが書き出しなのだと思っている。
そして実際に死体が発見される場所でも、普通の場所ということはなかなかないだろう。
奇人と言われている芸術家のアトリエであったり、人が住んでいない空き家になっているところの真夜中に発見されたり、どうしてそんな場所に発見者が赴くことになるのかというのも、作者の書き方としてその腕が問われるというものである。
純一郎は自分もそんな小説を書きたいと思うようになっていた。以前のように誰かが殺されるのを怖がって書けないというのも、どこか中途半端な気がして、ミステリーというものを考え直すということで、戦前戦後の話を読むことは、自分にとっての大きな挑戦に思えていたのだ。
殺人小説
小説を書くようになってからの最初の頃は、ミステリーに嵌って書いていたが、そのうちにオカルトっぽう作風に変わってきた。
人を殺す描写が嫌いだったくせに、オカルト色が強まると、誰かを殺さないと気が済まなくなっていた。
人を殺すと言っても、小説の中だけのことであり、しかもオカルト色を強めることで読む人よりも、書く方の自分の方が気が楽になっていった。
そもそも人が死ぬシーンを書きたくないという発想は、
「そんなシーンを書いてしまうと、いずれそれが自分に返ってくるという、一種の戒めのような印象があり、自分が殺されたくないという意識から、怖いことには最初から触れないようにしていたのだ。
妖怪や神様、天国と地獄など、信じるようなタイプではなかったが、人に対して何をすれば、そのしたことの悪い部分だけが自分に返ってくるという発想があったのだ。
それはまるで、
「神様の存在は信じないが、宗教は信じる」
というようなものである。
そのため、信じられないと思いながら、自分のした悪いことだけが災いとして返ってくるという、宗教においての因果応報を、信じていたのだった。
だから、子供の頃からホラーは嫌いだった。それは妖怪やお化けが怖いというよりも、例えば、
「入ってはいけない」
あるおは、
「見てはいけない」
と言われることがあると、人間の心理として、どうしても入ったり、見たりしなければいけないと思えてきて、実際にそこに足を踏み入れてしまう。
踏み入れると、たいていの場合、ロクなことにならない。昔からある神話や伝説はそのことを教えてくれている。
どこまで信じていいのか分からないが、都市伝説と言われるオカルトのようなものである。
小説のジャンルとして存在するオカルトというのは、ホラーとはどこが違うのかと思うのだが、ホラーのように、見た人が怖いと直感で感じる、人間心理への恐怖であるいわゆるサイコホラーであったり、怪奇への恐怖としてのオカルトホラーなどが存在するが、オカルトとして単独で存在するものもある。
この場合のホラーとオカルトというのは厳密には違い、
「ホラーというのは、恐怖一般としての、恐怖や戦慄などをいい、ゾンビなどの妖怪や化け物がが出てくるもの」
をいうことが多く、
「オカルトというのは、神秘的な意味であったり、往生現象的な意味で言い表すことが多い」
と言われる、
ホラーの場合は何かによって恐怖を与えられるものであり、オカルトは、都市伝説であったり、伝説的な話などと言ってもいいのではないだろうか。
つまり純一郎の小説は、ホラーのようなお化けや妖怪などは出てこないが、人が死んだりする場合に何か伝説的な言い伝えなどが、人の死に影響を及ぼしているというような話である。
いろいろ本を読んだりすると、神話や昔話の中でもオカルトっぽい話もよく出てくる。オカルトっぽさという話が出てくる。だが、その話はよくできていて、人間を戒めるような話もできていたりする。それが一緒のサイコホラーっぽさを演出していて、一概にオカルトだと言えないところもあるが、そういう意味で、オカルトとホラーは混同しやすく思うが、結局はまったく違うののだということを却って思わせるものではないかと思うのだった。
だから、純一郎が自分の書く小説で、人を殺すのを躊躇っていたのは、オカルト的な発想を持ったことと、それをホラーのように恐怖に感じたことで、頭の中で混同してしまって、オカルトホラーというジャンルを調節してしまったのではないかと思うようになっていた。
「そんなに思うのなら、ミステリーなんか書かなければいいんだ」
と自分に語り掛けてみたが、そうもいかないようだった。
戦前戦後の小説を読んでいると、自分も書いてみないと気がすまなくなってきた。もちろん、自分がその時代を知っているわけではないので、話はどうしても想像の域を出ない。しかし、それが自分の中にある、
「フィクションを書きたい」
という思いと合致するではないか。
純一郎は、ノンフィクションや随筆、いわゆるエッセイなどのようなノンフィクションを書きたいとは思わなかった。そういう意味での歴史小説も嫌だった。純一郎の基本とするものは、
「読む小説と書く小説では基本的に違うものだ」
ということであった。
確かに、ミステリーのように影響を受けて書いてみようと思ったものもあったが、それ以外の、特にノンフィクションが嫌だった。
読む小説としては、ミステリーの他には、歴史上の人物や出来事を中心とした歴史小説などが多かったが、それはノンフィクションである。逆に史実を元にして、架空の主人公による時代小説は、あまり読む気にはなれなかった。