裏表の研究
「別に本を出さなくても、生きていけないわけではない」
というだけのことではないだろうか。
裁判沙汰になった会社は、さすがに本を作りたいという人が集まってくるわけもなく、あっという間に運転資金も底をつき、結局、潰れることになってしまった。弁護士と相談をしてのことだったが、悲惨だったのは、本を出すと言って契約し、まだ製本もされていない人だった。お金だけを取られてしまった会社が潰れたので、本は出ない、お金は返ってこないという二重の苦を味わうことになった。
一番悲惨だったのが、契約をして本が出ていない人という意味で、他の人が悲惨でなかったわけではない。
出版社で本を製作した人も、悲惨であった。本が戻ってくるわけではなく、これもひどい話なのだが、
「定価の二割引きで引き取っていただけまづ」
というものであった。
売れ残ったものを、何と作者にその責を負わせようというものだった。そうなってしまうと出版社と作者との間で泥沼のやり合いが続くのは必然である。最後はどのようになったのか分からないが、少なくとも作者がただで済んだわけはないだろう。
一時代をすい星のように駆け抜けたといえば聞こえはいいが、社会現象を巻き起こしておいて、最後は社会問題で世の中を引っ掻き回したという意味では、相当な罪なのではないだろうか。
そんな時代を知っている人は、もう自費出版社関係のところに本を持ち込むことはしないのではないかと思ったが、中にはまだ残っているところもある。いろいろな胡散臭いウワサのあるところであるが、とりあえずは残っている。もっとも、誰がそこを利用吸うrと言うのか、教えてほしいものである。
その後、出版社関係の詐欺行為に失望した人が小説を書くのをやめた人も結構いたかも知れない。しかし密かに書いている人は、ネットに流れたようだ。
SNSを使っての、無料投稿サイトなるものが出現し、原稿をネットで掲載するというやり方である。投稿する方も読む人も無料なので、出版とはまったく違うが、自分の作品発表という意味ではちょうどいいだろう。
しかも、公開しているわけだから、可能性は限りなく低いカモ知れないが、出版社の人の目に触れて、
「本を出してみませんか?」
という話が来るかも知れない。
もちろん、よく分からない出版社を相手にしなければいいだけで、有名出版社であれば信頼はできるだろう。
だが、基本的には趣味の域を出るものではなく、自分の作品を世間の人がどのような目で見ているかということが分かるという意味ではいいのかも知れない。
考えてみれば、自費出版社関係で本を出そうとする場合、結果として、
「世間一般の読者の目に触れる」
という意味で、ほぼ可能性のなかったことだった。
本を作っても、本屋に並ぶことがないのだから、それも当然だろう。確かに出版社が雇った人が目を通して、批評してくれるというのはいいのだが、末端の読者の目に触れることがなかったのだ。本当はそこを目標にしたのに、それが叶わなかったのに、無料でしかもネットという簡単なもので目に触れるというのは実に皮肉なことだろう。
小説を書いていると、人の書いた小説を読まなくなる。それは自分の小説がブレると思うからで、文章がブレるのか、それとも作風がブレるのか自分でもよく分からなった。きっと文章がブレると思っているので、自分の小説を読んでくれる人などいないだろうと思っていた。
文章作法に関しては、後で読み直すと顔が真っ赤になるくらいひどいものだという意識がある。だから、自分の作品を読んだ人が、
「読むんじゃなかった」
という意見を感想に書かれるのではないかと思うと、気が滅入るのだった。
そういえば、かつて、読みたいと言った人に見せて、酷評を受けたあの時を思い出していた。あの人がどういうつもりでそんなことを言ったのか、失礼にもほどがあると思ったことだったが、それは面と向かっていったからであって、SNSなどの顔が見えない相手であれば、いくらでも書けるというののだ。顔が見えないのをいいことに、人を酷評するのは卑怯だと思うが、今のネット時代では、それも仕方のないこと。
「これはあまりにもひどい」
という誹謗中朝などもあり、そのせいで死を選ぶ人もいるというが、実際にそういう問題があるのも事実だった。
自費出版社による詐欺もかなりひどかったが、ネットにおける誹謗中傷もそれに輪をかけてひどいのではないかと思う、
その頃になると、純一郎は、ミステリーに興味を持つようになっていた。
最初の頃は、殺人などを描くのが怖くて、書いたとしても、殺人の起こらないものが多かった。今のミステリーを見ていると、人が殺される場面や、殺されている人を見つけるシーンなどにあまり重きが置かれていないような気がした。それを感じたのは、昔の、いわゆる戦前戦後の時代に、一世を風靡したと言われるような探偵小説を読むことでそう感じるようになった。
どうしても、映像化作品になるような描写や、さらには放送禁止用語などが多くなったために、それぞれの描写も制限が掛けられるようになっているのだろう。
今の小説は、探偵と呼ばれる人間が、普通の庶民だったり、探偵という職ではなく、例えば法医学者だったり、家政婦だったり、ルポライターだったりと、普通なら警察の捜査に入ってくることを拒まれる人たちが警察と協力して犯罪を暴くなどという非現実性が、小説らしくて、読者の気持ちをうつのかも知れない。
さらに、もう少し前となれば、列車をモチーフにした、いわゆる「トラベルミステリー」と言われるものが一世を風靡していた時代もあった。時刻表を手元に、時間などを使ったアリバイトリックなどがその代表であろう。
これなどは、完全に映像を意識した作品と言えるのではないだろうか。日本全国を走る特急列車や、ご当地の駅をテーマにして、その土地の人間性は風土などを織り交ぜた作品にしてしまうと、映像的にも視聴者の望むものとなっているに違いない。
そんな小説のさらに以前には、社会派小説があっただろうか。会社内の組織の中での出世競争であったり、同業他社との確執であったりがテーマとなり、会社の利益が裏に潜む殺人事件であったり、高度成長時代のいろいろな問題、例えば公害問題などをテーマにした社会体制に対しての批判めいたミステリーである。
だが、純一郎が気になったのは、さらに前、おどろおどろしいと言われるような時代の小説である。
当時は、戦争がどうしても社会生活の中に入り込んでいて、戦後であっても、占領軍によって統治されるという時代であり、しかも都会も空襲から焼け野原になった土地に住む住民は、治安も安定していない中、混乱している世情を生き抜いているのが庶民だった。
世の中には蔓延っている闇と呼ばれるものは、闇市、闇ブローカー、闇の仕入れなど、市民生活で、闇を利用しないと生きていけない時代だった。
闇の組織も存在していたと言われているが、そんな素材を小説にしている人もいただろう。復興が進み、時代が日本を独立国家に仕立てていく。それによって小説も自由に書けるようになってきた。