裏表の研究
さらに新人賞に入選するための話で、最初に書かれている新人賞の選考過程などを見ると、入選することがまるで宝くじか何かのような錯覚を覚えてしまった。一番ビックリしたのは、最終審査までは、公募の際に審査員として乗っている有名作家の人たちがまったく目を通すことがないということだった。
何しろ一次審査などは、
「下読みのプロ」
と言われるような、プロ作家になりきれなかった売れない作家たちのアルバイトのようなものであることを知った時は愕然としたものだった。
ただ、それはあくまでも、小説が書けるようになった人が、さらにプロを目指したり、新人賞入賞を目指すためという一つ上のステップの人が読むものだった。いまだに一つの作品も書き上げたこともない、まだ趣味としても一歩もその世界に足を踏み入れたことのない人が読むものではないのだ。
そういう意味で、純一郎は趣味としての小説入門なる本を手にして読んでみた。その本はそれまで読んだ一歩先を目指すハウツーものとは違って、かなりハードルが低い内容であった。
その内容は、
「小説というものには、別に格段のルールのようなものはない。何でも書けばいいのだ。もちろん、最低限の文章作法はそこに存在するが、それは読みやすさという意識のもので、書くことに対しての制限はない。作文を書くような感覚で書けばいい」
と書かれていた。
純一郎は、
「なるほど」
と感じ、今まで読んだ本が、いまさらながら、小説を書けるということを前提として書かれた本ではないということを悟った。
さらに、
「小説を書き始めてから、最初にぶつかる問題は、最後まで完結させることができないということであろう」
と書かれていた。
これについても、
「最初の書き出しができるようになると、ある程度までは書き続けられるようになるが、最後にどのように纏めようかと考えた時、たぶん、書き始めの時点から、ある種の構想を持っていなければまとめることはできないだろう。しかし、そこまで書いてきたのだから、そこで終わってしまうというのは実にもったいない。とにかく、気に入らない作品であっても、途中まで書いたのであれば、最後まで完結させることが大切だ」
と書かれていた。
確かに最初からベストセラーになるような小説が書けるわけではない。書いていくうちにうまくなっていくものだし、それが小説を書くということの醍醐味と言えるのではないだろうか。
小説というものが、書き始めと、完結させることができれば、
「小説を書くのが趣味です」
と言ってもいいのではないかと思っている。
一度小説を書いていると言って人に見せたことがあったが、その人は最初小説を読む前のことだが、
「小説を書いているなんてすごいじゃないか。ぜひ読みたいものだな」
と言ってくれたので、こっちも調子に乗って、
「そうかい? そう言ってくれるのなら、読んでもらおうかな」
と言って、その人に、最初の頃に書いた話を読んでもらった。
すると、原稿を返しに来たその人は、最初に感動してくれた時の様子と打って変わっていて、
「読むんじゃなかったよ。一行目読んだだけで、失望しちゃった」
と言われた。
その時の純一郎は、顔が真っ赤になっていた。何に対して顔が真っ赤になったというのだろう。小説の内容が酷評されたことで、作者としての恥ずかしさからだろうか?
それとも、こんな失礼なやつだとは思わなかった、そんな相手に見せてしまったことへの後悔からだろうか?
それとも、おだてられて、ホイホイ小説を見せて、褒められるというかなりの期待を持って彼が原稿を返しに来てくれる時を待ちわびていた自分に対しての恥ずかしさであろうか?
どれにしても、ショックは大きかった。しばらく小説を書くことをやめてしまったほどだったが、考えてみれば、相手もプロではない。勝手なことを言っているだけなのだ。もしそんな話を自分が他の人から聞いたら、圧倒的に批判した人間が悪いということは明らかだったはずだ。そういう意味での立ち直りは早かったような気がする。
結論としては、そんなくだらないやつに見せてしまった自分が浅はかだったというだけで、そんなくだらないやつの話を気にする必要もないということに気付いたのだ。
それでも何とか小説を書き終えることができるようになると、自信が出てきた。一度途中で人に見せてしまったことで後悔してしまったことで、人に見てもらうことを極端に嫌うようになった。
書けるようになり自信がついたことで、
「新人賞もいけるんじゃないか?」
と自惚れて。何度か新人賞にも応募してみたが、結果は散々たるものでしかなかった。
それでも書けるようになったことの方が喜ばしいことで、まず完結させることができたことがワンステップ上に進めた気がしていた。
そのうちに新人賞にも応募しなくなり、小説を人に見えることもなくなると、今度は人とのかかわりを完全に捨ててしまう方に、自分が移行していることに気付かなかった。
高校生になる頃は結構ほとんど一人でいることが多かった。家族とはもちろん、学校でも授業中以外は誰とも一緒にいる時間がなくて、それでも、暇があったわけではなかったので、充実はしていただろう。
一日の間で小説に関わっている時間が結構あった。最初は本を読む方の時間の方が多かったが、途中から、少し読んだだけで、小説を書きたくなってくる衝動に駆られてくるようになっていた。
小説を書くのは結構体力を消耗していた。小説を書く上で一番重要なことは、
「想像力を膨らませる」
ということだった。
その想像力を膨らませる一番の自分の中にある力は、集中力であるということを分かっていた気がする。実際に書いていて集中力が高まっていることは分かっていて、その理由として、書いている時間が一時間半近くもあったにも関わらず、感覚的には二十分くらいだったように思うのは。それだけ集中していたから、感じた時間が短かったに違いない。
しかし、感じた字k名が短いということは、四倍くらいの実際に掛かった時間を集中していたということだから、客観的に見ると、もうへとへとになってもいいくらいの時間だったに違いない。
純一郎が時々思い出すこととして、最初に書けるようになったきっかけの一つで、ふと感じたことであったが、
「人と話ができるんだから、書けるはずだよな」
という思いだった。
実際にはそれほど人と話をすることはないが、小説を読みながら、自分が主人公にでもなった感覚でセリフを呼んでいると、
――これくらいなら、俺にも書けるかも知れない――
と思うのだが、それは、自分が喋っている気持ちになっているからなのかも知れない。
自分だったら、こんなセリフも言えると思うようにならなければ、きっと文章にして起こすことなどできないと思うことであった。
集中することと、書けるようになったきっかけが頭の中に残っていることで、小説を書いていられると思うと、そのうちに、別にプロになったり、本が出せなくてもいいのではないかと感じるようになってきた。
ただ、それを実際に裏付けするかのように感じさせたのは、当時の出版会の事情でもあった。