裏表の研究
痛かったかって? そんな意識はなかった。気が付いたら、ベッドの上で目を覚ましていた。
その日はいつものように汗を掻いていたわけではない。息苦しさもなかったし、殺されたという意識もなかった。
殺されかけたという印象は残っているが、刺されて痛いとか、苦しいという感覚は残っていなかった。
「ただ、殺されるというシチュエーションの夢を見た」
というだけで、恐怖は残っていなかった。
残っていなかったという表現をしたのは、夢の最後で恐怖を感じなかったという確証がなかったからだ。
今まで何人にも殺されたが、この日初めて恐怖を覚えていない殺される夢だった。今までのパターンが変わったのだ。
そう思うと、
「もう明日以降は、殺されることでの恐怖を夢で見ることはないのではないか?」
と感じるようになった。
今まで自分が小説で殺してきた皆に殺されたのかどうかも分からない。どうして今日怖さが残っていなかったのかも分からない。だが、そこに道化師が何らかの形でかかわっているのだけは分かった気がする。ただそれは道化師だけのおかげというだけではなく、住宅街に思えた昔の光景に自分の記憶がマッチしたという意識が働いているからだったのかも知れない。
だが、今まで見てきた夢に共通しているのが、ひょっとすると道化師なのではないかという意識を持った。
夢を覚えている中で出てきた道化師は、今日だけだったのだが、それ以前、つまり覚えていない夢、さらには覚えているのだが、それが本当にすべての記憶だったのかといつも不思議に感じていた。その理由は、
「すべて覚えていたのだとすれば、それはリアルな記憶であって、現実世界と頭の中で混乱しないだろうか」
というものであった。
後から思うと、確かに道化師が初めて見たという印象になかったのは、前に夢で逢っていたからなのかも知れない。その時の光景も今日のような昔の住宅街の様相であり、住宅街に最初、
「初めて見た気がしない」
と思ったことで道化師への記憶が混乱し、過去に見たはずのものを、自分で納得できないことで、思い出せなかっただけなのかも知れないと感じたのだろう。
道化師というのは、人を楽しませるだけではなく、恐怖の象徴でもあると思っていたのは、映像で見た道化師のイメージが強かったからだ。サーカスや、チンドン屋などのピエロと、自分が頭の中で思い描いている道化師とは明らかに違っている。某ハンバーガーショップのイメージキャラクターのピエロも、道化師というよりも、ピエロというイメージしかなかった。
純一郎の中にある道化師のイメージは、その扮装を外そうとしても、その下には、また同じ扮装が隠れていて、さらにその下には……。
という、いわゆる
「マトリョーシカ人形」
のイメージだった。
マトリョーシカ人形というと、人形の中にまた人形、さらにその中からまた人形が出てくるという、民芸品である。
どんどん小さくなっていくが絶対にゼロにはならない。
「限りなくゼロに近い」
という表現しかできないのが、マトリョーシカ人形の最終系だと思っている。
初めて見る人形、民芸品の顔なのだから、きっと幼児のようなあどけない表情なのだろうと想像する。決して道化師のような表情ではない。そんな表情を想像すると、道化師も最終系は、そんなあどけない幼児のような表情であってほしいと思った。
「今回、やっとそんな幼児のあどけなさに出会うことができたから、このスパイラルともいえる奇妙な夢から覚めることができるのではないだろうか」
と感じた。
つまり今までの夢は積み重ねであり、マトリョーシカのように、道化師の仮面を一枚一万剥がしていくのが夢の目的だったのだとすれば、最後にはどこかに到達するであろうことは間違いのないことのように思えた。
その道化師を夢の中で忘れずに目が覚めたおかげで、悪夢から抜けられると考えてもいいのではないかと感じた。
道化師というものを今まで勘違いしていたと思った。意識は絶えず頭の中にあり、それは決して開いてはいけない箱にしまい込んであるという意識が、きっとあったのだろう。
限りなく、無意識に近い意識だったのかも知れないが、その意識が無意識に取り込まれるまでに夢から抜けられるかというレースのようなものではなかったか。そう思うと、抜けることでホッとしてはいるが、道化師の存在意理由にはなっていないことに気付かされる。
明らかに道化師が純一郎に多大な影響を与えているのは間違いのないことなのだが、その影響がどこから来ているのか、記憶は教えてくれない。むしろ、記憶というよりも、潜在意識の方なのかも知れない。そう思うと夢と大きく関わってきていることもどこかで納得がいく気がした。
マトリョーシカ人形のように、
「限りなくゼロに近い存在」
それが、自分にとっての道化師の存在意義なのかも知れないと感じたのは、潜在意識が教えてくれたことなのかも知れない。
道化師が夢の中に現れてから、悪夢を次第に見なくなった。それは道化師が現れたことが原因なのか、それとも道化師は単なる偶然で、たまたま自分を殺す人間が最後まで行ったというだけのことなのか、純一郎はハッキリと分からなかった。
脳波
そんな純一郎が大学を卒業し、就職した会社に、ちょうど高校時代の友達がいた。いつも相談に乗ってくれていて、逆に相手の相談にもよく乗ってあげていた、お互いに相談しあう間柄であったのだ。
友達の相談事というのは、他愛もない。いや、そういってしまえば失礼に当たるが、リアルな悩みで、恋愛のことや友達関係についてなどの、身近なことが多かった。それとは対照的に、身近という意味では彼よりも身近だったかも知れないが、得体の知れないと思われても仕方のないような相談が純一郎の方には多かった。
いつも、どう答えていいのか分からないと言った苦笑を繰り返すだけの友達が、有名大学を卒業し、同じ会社に入社することになった。
だが、さすが相手は有名大学の卒業生なだけあって、一般に入社してきた連中とは一線を画していた。最初から社長付けとして、社長直属のポジションで、将来の重役はすでに約束されているかのようだった。
一般的なマンモス大学を平均的な成績で卒業した純一郎などとは、レベルが違うくらいであった。
その友達は名前を北橋博文と言った。理工系では全国トップレベルを誇る大学で、北橋はその大学を優秀な成績で卒業したという。いくつもの企業から内定をもらっていたが、彼だったら、もっと大手企業だったり、国立の研究所のようなところが似合いそうなのだが、なぜか純一郎と同じ会社に入社した。
「お前くらいのレベルがあれば、もっと大きなところに行けたんじゃないか?」
と言ったが、
「いや、そうでもない。俺はここが似合っているんだ」
と、何を根拠に言っているのか分からなかったが、自信を持ってそういったことは確かだった。
彼は社長付けではあったが、郊外にある会社の研究所での使用権限を持っていて、社長からも、
「何か研究したいことがあれば、届け出さえすれば、研究所の施設や、助手を好きなように使ってもいいようにしておいたぞ」