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裏表の研究

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 しかし、時代小説というには、さほど古くもない気がする。やはり普通のミステリーと考えてもいいのかと思うと、またしても頭がこんがらがってくる。
 純一郎は、自分が書く小説を普通のミステリーだとは思いたくない。そう思ってしまうとフィクションとして書く時代背景が架空であることの意味を掴みかねるような気がするからだ。
 ただそんなことばかりを考えていては、書けるものも書けなくなる。とりあえずジャンル云々よりも書き上げることが大切だった。
 純一郎はそれまでにも数年前くらいを時代背景にして殺人事件を扱った小説を書いてみたりした。だが、どこか不満があった。それは時代背景に不満があったと言ってもいいのではないだろうか。
 自分の好きな時代は、やはり戦前戦後くらいになってくる。図書館に行って、当時の情景や風俗を表した写真をいくつか見たり、当時を舞台に書かれた小説をたくさん読んだ。もちろん、時代背景も歴史の本を中心に勉強もしたりした。
 順番としては、時代は意見を勉強し、写真などを見て、その後に小説を読みふけるというのが正解なのだろうと思い、その順番で進めてきた。
 そこまではスムーズに行ったが、いざ小説を書いてみようという段階になると、筆が進まなくなった。
 というよりも、最初から何も書けない。
 今までの経験からいくと、最初につまずいてしまうと、なかなか難しく、何も書けないまま時間だけを要してしまうと、結局その内容の小説は日の目を見ることができないで終わってしまうことがほとんどだった。
 それなりにプロットは書いたつもりだった。しかし、最初が出てこないのであれば、これも結局お釈迦にしてしまうのだろうかと思うと、切ない気分になってきた。
「いや、何とかしたい」
 と思い、何とか数行くらいを書くことができると、そのうちに少しずつ筆が進んでくるのを感じた。
 今から思えばその時、やめてしまわなかったことが、趣味としてではあるが、小説を書き続けられるようになった基本だったのではないかと思っている。
 もし、あそこでやめてしまえば、それ以降は小説を書くということにトラウマを覚え、そのトラウマがどのような影響を自分に与えていたか、想像を絶するものになっていただろうと思うのだった。
 今回の小説は、大量殺人を目論んでいた。トリックや犯人がどうのこうのではない。とにかくたくさんの殺人現場を書きたいと思った。
 実は今まで読んだ探偵小説の中で、大量に人が殺されるという話はあまり好きではなかった。その理由は、どうしても、トリックであったり、ストーリー性なるものがおろそかになるからだ。
 今回書いてみようと思っている小説は、自分のそんな形のものを否定しようという考えであった。
 根底にあるのは、
「どうせ素人なんだから、何でもありだ」
 という、いつも持っている感覚だった。
 確かに無料投稿サイトにアップして、
「見たい人は見てください」
 という形で公開しているのだから、それなりの体裁は整える必要はあるのだろうが、根底に何でもありだと思っていると、どんな作品でも許されるという気楽さがあった。
 それにともなって、出来上がる作品の完成度もあまり深く考えないようになった。
「質よりも量だ」
 というのが、純一郎の基本的な考え方だった。
 そのために書いているとm時々悪い癖として、時数を稼ごうという意思が働いてしまうことがあり、下手をすれば似たような言葉を続けてしまうということになりかねない。
「まあ、素人なのでいいか」
 と、またしても妥協に走るのだが、それでも、
「どうせ、いい作品なんて書けないと思っているのだから、たくさん作品を残す方を選んで正解なのだろう」
 と思っている、
「そもそも、いい作品というのは、どういうものなのだろうか?」
 ということを考えてみた。
 いい小説と聞いて考えられる最初の発想は、
「人に認められる小説」
 ということになるのでないか?
 では人に認められる小説というと、どういうのをいうのか? 例えば大手出版社で新人賞や、文学賞を取った作品をいうのだろうか?
 元々プロが書いた作品と素人が書いた作品とでは違うのかも知れないが、この際プロは考えないとして、素人であれば、やはりまずは新人賞を受賞した作品ということになるのではないか。
 しかし、それらは選考段階が問題になってくる。まずは、第一次審査であるが、ここはいわゆる
「下読みのプロ」
 と呼ばれる連中が、小説としてお体裁だけを見て選んでいるのである。一人がどれほどの作品を受け持つのか分からないが、そこで振り落とされることになる。そして募集要項などに載っている選考委員の先生たちが実際に目を通すのは、最終選考に残った作品だけだ。そこまではどこの誰が審査するのか、よく分かっていない。
 それを思うと、新人賞に選出された作品というのが、一般的にいう、いい作品なのだろうかというのはどうも疑わしい気がする。
 しかも、新人賞を獲得した作家が、そのままプロとして生き残れるかどうかも難しいところとなってしまう。
 それを思うとプロとして生き残るのも難しく、新人賞を受賞した作品はやっと受賞後に出版という形で世に出ることになる。
 その作品には、最初から、
「新人賞獲得作品」
 というレッテルがあるので、見る人もそういう贔屓目で見るだろう。
 ほとんどの人はその贔屓目で見ることで、いい作品として認識して見るに違いない。
 しかし、中には天邪鬼のような人がいて、作品を斜めから見る人もいるだろう。最初から批判的な目である。そんな人が見ると、どんな作品に写るのか、聞いてみたいものである。
 図書館に行っても、本屋に行っても、本は所狭しと並んでいる。よほど世間で話題になっている本でもなければ、そのほとんどは、棚に一冊くらいしか置かれていない。世の中に流通している本というのは、果たしてどれほどの量が存在するものなのか、ある程度の量を知りたいとも感じる。
 そんな中で、誰が果たしてどの作品をいい作品だと思うというのだろう。
 ネットのSNSなどであれば、「いいね」などと、感想の代わりに簡単にクリックすることで評価ができる。そんな簡単な時代だからこそ、小説などの、
「いい作品」
 というのが、どういうものをいうのかを検証して似たいと思うのは、おかしなことであろうか?
 ただ、その結論が出ない間は、何がいい作品なのか、分かるはずもない。分からないものを目指してもしょうがないと思うのは理屈として通っていると思うのだが、どうなのだろうか?
 小説を書けるようになった悦びとともに、それ以降、
「何を持って悦びとしていくか」
 と考えた時、純一郎は最初、やはり
「いい作品を書きたい」
 と誰もが考えるような発想になった。
 しかし、実際に考えてみると、前述のように、
「何を持っていい作品というか?」
 と考えると、一つの壁にぶつかり、それがジレンマとなり、
「このままでは執筆ができなくなる」
 と考えた。
 そして出た結論が、
「質より量」
 だったのだ。
作品名:裏表の研究 作家名:森本晃次