裏表の研究
そう、果たして探偵には分かっていたのだ。ただ、これは決して無差別連続殺人などという猟奇的な殺人ではなかった。これはあくまでもカモフラージュ。ここに埋められている女性たちは土葬された墓の中から盗まれた遺体だった。奇人画家は殺人など犯していなかったのだ。本当の犯人が奇人画家に自分の犯行を押し付け、そして自分の殺人を奇人による猟奇殺人に塗り替えてしまおうとしてのものだったのだ。自分の犯罪の結果を奇人画家に発見させて、彼に嫌疑を向けたところで、この石膏像を見せる。警察は彼を班んだと思うだろう。彼は逃走癖があるので、それを利用し、その間に探偵の助手を使って、この石膏を発見させる。奇人は出てきたくてもこうなってしまうと画家としては大胆であるが、このような男ほど小心なやつはいないのかも知れない。
そんな小説であったが、現代ではなかなか表現できないものである。奇人画家のアトリエの雰囲気を今の時代の建物で表現することは難しいし、何よりも、たくさんの女性の石膏像など、発想すらできないかも知れない。しかも、石膏像の中の女性の遺体が土葬されていたということだが、今の時代に土蔵などありえない。(ただ、いまだに土葬が禁止されていないところもあり、法律的には可能である。とはいえ、数人の若い女性という意味で、ほぼゼロに近いと解釈してもいいだろう)
また奇人という表現も放送禁止や差別用語としても、使用できない風潮にある。昔の方が、まだ自由だったということなのか、それは自由という言葉が全体に対してのものなのか、それとも個人個人に対してのものなのかを考えると、その考えの違いに自ずと気付いていくものではないだろうか。
今の時代との違いを考えていくと、純一郎が昔の小説を読み漁る気持ちが分かるような気がする。かといって、今の時代に当て嵌めて書くことのできないギャップ。それは、自分がノンフィクションを書きたくないという思いへの反映ではないだろうか。
しかし、それでも書いてみたい気がするのは、自分が小説を書き始めるようになったきっかけと似ているかも知れない。
元々いじめられっ子だったこともあって、いずれはまわりに復讐したいという思いがあったのは事実だろう。しかし、いくら小説の中とはいえ、人を殺すということは、許されない気がした。いくら自由な発想だといえ、安直に殺してしまうのは、自分の感性に逆らう気がしたからだ。
だが、感性であるからこそ、小説で人を殺すというのは、芸術の域を感じさせる。自分が望んだことを、芸術が、しかも自分の中の感性という芸術が凌駕してくれるのであれば、いくらプロではないとしても、自分で自分を認めることができる。
「これからも小説を書き続けていいんだ」
と自分に認めさせることができるのだ。
「自分が認めないことは、してはいけないという発想ではなく、自分がしたいと思うことを自分自身で認めさせる」
それこそが、芸術家としての自分を自分が納得できる一番の方法だった。
好きな人ができたとして、
「自分がその人を好きだから好かれたいと思うのか、好きになられたから、その人を好きになるのか」
ということに似ている。
純一郎はどちらかというと、好きになられたから好きになる方だった。だがそれは自分が人を好きになることはないのではないかという思いの裏返しでもあった。
本当は、好かれなければ人を好きになれない性格だからこそ、人を好きになれない。それを分かっていないと、どちらを求めるかと言うと、好きになられて初めて人を好きになるという消極的な自分を演出したいと思うのではないだろうか。
どこか逃げに走っているように思えるが、芸術家というのも、実は怖がりで、怖がりだからこそ、必死で自分をアピールしたいと思うのかも知れない。
芸術家のほとんどが、
「自分に自信がないから、自分というものを表現するのに、芸術という形のあるものに頼ってしまう」
という心理学の先生の話を聞いたことがあるが、純一郎はその話を信じられなかった。
しかし、その思いを自らの作品に織り交ぜている小説家がいることに、純一郎は衝撃を受けたのだ。
それがこの時の作品を書いたミステリー作家で、彼は自分の小説の中でふんだんに殺人を演出した。
しかし、中にはこの作品のように、たくさんの人が殺されているというイメージを読者に与えて、しかし実際にはまだほとんど殺人など行われていない。しかも、行われた殺人にしても、犯人の本当の目的ではないというような話だったこともあって、その謎解きの場面場面で大きな衝撃の連続であった。
事件のアピールというのは、普通なら小説の中だけのことであろう。実際の殺人事件では、自分を鼓舞するような演出をすることはない。なるべく自分が犯人だなどと思われたくないのが信条で、人を殺してしまうと、一刻も早くその場方立ち去りたいという衝動に駆られる。それなのに、その場にとどまる犯人がいたとすれば、それはその場から立ち去れない理由があったからだろう。例えば誰かに見られてしまったなどという、突発的な状況に陥った場合なのである。
それでも、
「事実は小説よりも奇なり」
という言葉があるが、中には常軌を逸した殺人が事実としてあったりするのだろう。火のないところに煙が上がるわけもないし、言葉が存在するのであれば。必ずその根拠も存在するというものである。
人を殺すという小説を書けるようになったのは、そんな発想が頭に浮かんできたからではないだろうか。
そのターゲットとして差し当たってイメージできるのは、子供の頃に自分を苛めていた連中である。そして、忘れてはいけないその時に傍観していた連中、その時の目を純一郎は決して忘れているわけではなかった……。
「小説執筆」考
さすがに殺人シーンであったり、最初のインパクトをいかに書くかということを考えていくと、どうしても時代を少しでも遡らないといけなくなってくる。しかもその時代というと自分の知らない時代。つまり昭和の時代がそお背景に潜んでいるような気がするのだ。
実際に知らない時代なので、それを描くということは少々調べたとしても難しい、
となると、但し書きとして、
「この話はフィクションであり……」
として、時代背景まで架空にしてしまわなければいけない。
そうなると、ミステリーというだけではなく、SFチックになってしまうのではないだろうか?
近未来という発想がSFであるように、過去を想像して書くのも一緒のミステリー、そんな風に考えると、どこか自分の書きたい小説という者が何であるか分からなくなっていった。
ミステリーがSFチックになってくると、今度はいくら近い過去であっても、過去は過去、そう思うと、時代小説という考え方も出てくる。そういえば、大東亜戦争における架空の物語を時代小説においてあったような気もした。あれも一種の時代小説であり、戦記物であり、SF小説でもあるのだろう。
あれをSFとして考えないのであれば、純一郎の考える過去のミステリーというのは、sfから除外してもいいのではないか、そう思うと、ミステリーと時代小説ということになるのか?