裏表の研究
中学時代に読んでいた、戦前戦後を舞台にした探偵小説。そこに興味を持った理由の一つとして、
「戦争中という時代は、まわりがどんどん死んでいくという光景を、軍人のように戦闘の最前線にいた人以外も、誰でもが日常茶飯事のように目撃するという実に異様との言える時代だったのに、小説の中では人が一人殺されるというシーンをいかにも重大事件として描いている。それに比べて今の時代の小説は。人が殺されるシーンをサラッと書くような風潮がある。それは今の時代が本当の死というものを実感できないからではないかと思える。普段生活をしていると、そんなに頻繁に人の死、しかも感覚がなくなるほどの大量な人の死に遭遇することはないからである」
と言えるのではないだろうか。
つまり、今の時代とあまりにも違う時代であって、
「映像で見たり、本で読んだりしてイメージは湧いたとしても、それは架空のものであり、近づくことすらできない。架空であるという発想は、自分が小説を書きたいと思う発想と同じではないか」
という強引とも言える結び付けからなるものではないだろうか。
ここでこうやっていくら文章にしたとしても、自分が考えていることが伝わらないであろうことは分かる気がする。実際に生きてきた時代を味わってきた人にとっては、想像で架空を描かれるのは心外だというかも知れない。
しかし、純一郎はそれだけに、人が殺されるシーンを描くことにこだわりがあった。だが、一度自分の中の罪悪感を切り離してしまうと、まるでタガが外れたように、人が死んでいくシーンを描けるのではないかとも思った。
それは意外と難しいことであり、人が死ぬシーンへのこだわりを持っている人になってみる必要があるのではないかとも思った。
「そんな余計なことを考えているから書けないんだ」
という言葉を投げかけるもう一人の自分、そんなもう一人の自分の存在を知ることで、やっと殺人を描けるようになったのではないかとも感じていた。
殺人シーンというのが描写なのか、それとも心理を描くことなのか、それは自分が殺害場面を書くようになってから、ずっと感じていることだった。
当時の描写で怖いと感じたのは、アトリエだった。いわゆる奇人と言われる画家がいて、その男は世間とはほとんどかかわりを持つことはなく、そんな中で見一にアトリエに籠って作品を作っていた。絵を描くだけではなく、彫刻も扱っていて、蝋人形であったり、マネキンであったり、石膏像のようなものが所せましと置かれている。
特に怖いのは石膏像だ。マネキンなどであれば、営業時間もとっくに終わった百貨店の婦人服売り場にて、警備会社から派遣された夜間の見回り警備員などが、懐中電灯を片手に、こわごわ見回りをしている。基本的に営業時間ではないので、電灯はつけていない。そのため、服を着ているマネキンが闇に蠢いているような感覚があり、それが恐ろしい。生命が雇っているわけではないのに、人間の形をしているというだけで気持ち悪いのだ。
マネキンは真っ暗な誰もいない百貨店で見れば怖いのだが、このアトリエで実際に見て恐ろしく思うのは石膏像であろう、奇人が巣くうアトリエというと、プレハブに毛が生えたようなもので、奇人の画家であれば、そこにベッドや生活用品も置いていて、アトリエをそのまま自分の家として使っているイメージが想像できる。
ある探偵小説では、そんなアトリエの主である奇人画家が留守の間に、何者かが侵入し、そこで部屋の中を物色していた。その何者かというのは、実はある殺人事件の解決を依頼された探偵だったのだが、探偵の助手がそのアトリエに忍び込んだのだ。
問題の奇人画家というのは、殺人事件での第一発見者であり、そのうちに、その男も容疑者の一人として俄然クローズアップされてきたので、探偵の助手がその男を見張っていたところ、やっとその男が留守にしたことで、アトリエ内を捜索できた。
本来なら動作令状がなければダメなのだろうが、そのあたりは曖昧に書かれていた。それほど小説内で問題にすべきことではなかったからだ。
捜査の鉄則として、
「第一発見者を疑え」
というのがあるが、まさにこの奇人画家はその条件に当て嵌まっていた。
この男がいない間、助手は暗闇に乗じて忍び込んだが、ここでいきなり何かを物色してしまうと、それこそ令状がないので、罪になってしまう。戸締りが完全にされていなかった場所から忍び込み、モノに障ることなく、アトリエを注意深く見て回った。真っ暗なので懐中電灯だけが頼りだが、本当にこれほど気持ち悪いののはないと思えるほどの状況だった。
懐中電灯をつけてはいるが、そのうちに暗闇にも目が慣れてきた。窓から入ってくる月明かりでも十分に明るさを保てると思うくらいで、表からの月明かりと中からの懐中電灯の明かりとで、石膏像はその空間に浮かび上がっていた。
石膏像は一つではない。いくつもあり、数えてみると、十体近くはあるそうだった。
それらの像が、ほぼ密集した場所に列に並ぶように立っている。しかもそのすべては裸婦であった。
これがマネキンであれば、まだ人間に近いので、人間をイメージするという意味での気持ち悪さがあるが、石膏像ともなると、懐中電灯だけであれば、そこまで気持ち悪くなかったかも知れない。カーテンも何もない窓ガラスから入り込む月明かりが、石膏像を最高に恐ろしいものとして浮き上がらせていた。
助手はそのマネキンの足元を見た、するとそこからパノラマ上にまるで大日本帝国の国旗である旭日旗を見ているように、足元から放射状に影法師が伸びていた。その影法師は細長く歪なもので、もし、その石膏像が動くことができれば、足元を中心にクルクル回っているように見えるであろう。
そんな足元が石膏像の数だけあるのだ。つまり十個の足元から放射状に延びる影法師、これほど気持ちの悪いものはない。
助手は、その気持ち悪い状況に震えを感じながら、それでも探偵の助手としてひるむことを許されないと感じていたのか、勇気を振り絞って、その石膏像を一体一体調べ始めた。
その顔は暗くて確認できないが、恐怖と興奮で顔が真っ赤になっていることだろう。その興奮も恐怖から来ているものなのか、それとも好奇心からのものなのか、よく分からなかった。
「きっとどっちのなんだろうな」
と思ったが、どちらの方が強いのか、自分でもよく分からなかった。
すると、そのうちの一体の石膏像の顔の部分が欠けていて、sこに黒い細い線が揺らめいているのが見えた。
「揺らめいている」
などと書くと、
「そんな表現はないだろう」
と言われるかも知れないが、果たしてその時の状況はまさしくその表現通りだった。
まるで数本を束ねた髪の毛が、その小さな隙間からはみ出していた、風にでも揺れているかのようだった。
しかし、まったく風もない密室のアトリエの中で、しかも髪の毛などあるはずもない石膏像なのだ。そう思って再度確認してみると、
「何だ、アリが這い出しているだけか」
と安堵したが、そこにどうしてアリが這うのか、それを考えると理由が思いつかなかった。
髪の毛などなら、
「石膏像にオンナの魂が宿ったのだ」