裏表の研究
「人は急に何かに目覚めるということはある。だが、その時には自覚症状がどこかにあるんだ。目覚めたきっかけというものがね。それは意識して感じるものであって、君のようにきっかけがあったということすら意識がないのに、無意識にいい文章が書けたとすれば、それは逆にいうと、文章を書くということにかけて、何か素質のようなものがあって、その片鱗を見せたのではないかと俺は思うんだ。ただこれはかなり前向きに考えてのことなので、言っている俺も信憑性がどれほどあるものなのか疑問に思っているんだけど、君がその疑問の一角を解消してくれたのではないかと思っているんだ。だからこれからいろいろな文章を書いていくことになるだろうが、いい文章、悪い文章を自分なりに理解できていってくれると、先生は嬉しいんだ」
と、先生は話してくれた。
よく意味としては分からなかったが、何かを訴えているようには感じられたので、先生が期待してくれているということだけは分かった気がした。
中学生になって本を読むようになったのは、当時、昔流行っていた探偵小説がブームとなり、シリーズがドラマ枠で放送されたからだった。それから数十年前にもブームになったというが、
「ブームというのは、繰り返すものらしい」
という話を聞いて、
「なるほど、色褪せない作品は、定期的にブームになったりするんだな」
と思い、ドラマを見てから原作を買いに行った。
原作をその後に読んだのだが、どうしても、小学生の頃からの癖で、端折って読んでしまうところがあった。つまり、セリフだけを抜粋して読んでしまい、読んだような気になっていたのだ。
しかし、幸か不幸か、ドラマ化された作品は見ていた。だからセリフ以外の場面は、ドラマで見た場面を思い起こせばいいだけであり、何とか読むことができた。
そんなに端折って読んだにも関わらず、
「ドラマよりもかなり面白かった」
と感じた。
それまで、フィクションの小説と言われるようなものを読んだことがなかったので、最初はすごく抵抗があった。何しろ国語の試験の文章でも、端折って読むくらいである。小説のように長いものを、我慢できずに読むことができるのかという意識があったからだった。
しかし、その思いは案外逆に作用した。
――小説というのは、元々長いものである。国語のテストの時間のように決まった時間があるわけではない。テストのように設問があるわけでもない。自分のペースで読んで、何を感じるかということを楽しみにしていれば、それでいいんだ――
と思ったことが功を奏したのかも知れない。
読んだ文章は別に違和感なく、読み続けることができた。
その頃になって、自分がやっと、
「プレッシャーに弱い男だ」
ということに気付いたのだった。
何を持ってプレッシャーというのかという判断も難しいものである。
逆にいうと、
「プレッシャーなるものがなければ、俺には無限の可能性が広がっているんじゃないか?」
とも思うことができ、さらに逆を考えて。
「プレッシャーがあるから、感情の暴走を抑えることもできる」
とも言えると考えたりもした。
両極端な発想であるが、どちらも自分の感覚であった。
その時々でどちらが強く表に出てくるかによって、自分のその時の感性が違ってくるのだと思うと、ある日突然作文の点数がよかったという理屈も何となくではあるが、理解できるような気がした。
プレッシャーというものが、時として自分を解放することになり、逆に自分を束縛することにもなる。
「ただ、圧倒的に束縛する方が多いのか、それとも意識が強いのか、表に出てくるのは束縛の方だ」
と思うのだった。
だが、どちらが大切なのかというと判断ができない。意識することはあまりないとはいえ、解放してくれているという感覚は忘れてはいけないものだと思うし、その思いを抱くことが自分にとってどれほど大切なことなのかということを思い知らされる気がした。
ただ、中学時代というのは、好きな小説しか読んでいないので、自分の中では、
「感覚が偏っているのではないか」
という思いもあった。
ノンフィクションの歴史小説、そして話題になったテレビドラマのミステリーの原作、それ以外の小説は読んでいない。
だが、この感覚はそもそもが違っている。小説という括りで考える必要などないのだ。ジャンルという括りで考えさえすれば、例えばミステリーのように社会派であったり、トラベルミステリーなどのミステリーというジャンルの中に存在しているカテゴリーもまったく別なものだとして考えることができる。一つを柔軟に解釈することで、解釈はいくらでも広がっていくのだということを純一郎は考えていた。
順に遅漏にとって小説を書くというのは、
――自分の存在を表に出したい――
という考えの表れでもあったが、人とあまり関わりたくないと思うようになっていた彼との間での矛盾でもあった。
「生きるということは、自分の中にある矛盾との闘いである」
という言葉は、前に読んだ探偵小説で、主人公の探偵が言っている言葉だった。
人それぞれに、他の人には分からない矛盾があるらしく、それを本人が自覚しているかしていないかで、その人の人生も決まってくる。犯罪を犯す人間には、その矛盾が見えていて、その矛盾を自分の中でどのように解釈するかによっても変わってくる。最初から矛盾の正体を捉えていたとすれば、その人にとって犯罪は正当化されるものであり、探偵によって謎が解かれた時も、犯人は堂々としていることだろう。それだけプライドがあり、犯罪に対して自分の中で責任が取れていると感じているからではないかと書かれていた。
しかし、逆にその矛盾を自覚しておらずに犯行に及んだ場合、自分が犯罪を犯したことへの正当性など理解もできず、まるで何かに引き寄せられるように犯罪を犯したのだとして、責任を逃れようとするに違いない。その時見えてくる犯人の印象は、女々しいものであり、まったく潔さが見えてこないだろう。
「こいつにはプライドというものがないのか」
と言わしめるほどの醜態を晒すことになるだろうと、探偵は語っている。
しかし、そのどちらも犯罪としては同等なものである。どんなに正当性があろうとも、人の命を奪うことは許されないとも書いている。だが、純一郎にはそれが不思議だった。
――正当な理由があれば、犯罪も正当化されてもいいのではないか? 殺されるには殺されるだけの理由があるんじゃないか――
という思いがあった。
これが純一郎にとっての矛盾でもあった。
彼が自分の書く小説で、人が殺されるところを描きたくないという理由の一つに、この考えがあるのではないか。そして、この考えが、自分にとって一番大切なものではないかと思うようになっていた。
純一郎はそのことを感じるようになったからなのか、小説の中で殺人事件を書くようになった。
確かに書いていて怖いと感じることもあったが、書くことで自分の矛盾を浮き彫りにできるのなら、それも興味深いことだと思うようになり、心のどこかに持っていた、殺人を書くことへの罪悪感のようなものが少しずつ消えていくのを感じたのだ。