短編集88(過去作品)
モンゴルへ
モンゴルへ
「プライドの高い人間ほど扱いにくいものはない」
という意見をよく聞く。
斉藤は、最近までその話をまるで他人事のように聞いていた。学生時代に言われたこともなかったし、自覚もなかった。だが、それは学生だったからだと思い知らされたのは、彼女ができてからのことである。
大学を卒業するまでは、女性の友達といえば、本当に挨拶を交わすくらいだった。もちろん、彼女がほしいとはいつも思っていたのだが、
「お友達以上には思えないの」
告白してもいつも決まり文句を判で押したように言われるだけだった。
――お友達以上って何だろう?
そう考えるとお友達という言葉も曖昧である。「好き」と「愛している」の言葉の違いを考えてピンと来ないくらいなので、それほど真剣に人を好きになったことなどないに違いないが、そのことに気付いたのすら最近だった。
懐かしのフォークソングを思い出した。愛と恋の違いについて歌っていたように思ったが、恋が愛に変わる瞬間があるらしい。相手に期待するものがなくなることで恋が愛に変わるというような内容だったように思うが本当だろうか? 今でも斉藤はその歌詞に疑問を感じている。
恋の発展系が愛だということに異論はない。しかし、相手に期待するものがなくならなければ愛ではないという考えには納得できない。
――お互いに求め合う気持ちがあってこそ愛ではないか――
そう感じているのは、斉藤だけではあるまい。
そこにプライドが存在しているのかも知れない。最初は人当たりがいい人として女性から人気もあり、友達も多かったのだが、深い仲になることはあまりなかった。悩んだりしたが、理由は分からない。
大学の頃の友達に坂田という男がいた。彼は斉藤から見ればプレイボーイで、いつも誰かと付き合っている。軽い付き合いに見えるのだが、斉藤の付き合い方とはまた違う。お互いが納得づくでの軽い付き合いをしているようだ。
「女って面白いよな」
彼のアパートに遊びに行った時、坂田が呟いた。
「どういうことだい?」
「女が面白いのか、付き合っている俺が面白いのか分からないんだが、今まで結構すぐに別れたって女性も何人かいるんだよ。相手も納得づくでね。別に遊びってわけじゃないんだけど、おかしなものだね」
「知り合うまでに楽しみがあるのかな?」
「綺麗な山があって、そこに登ってみたいって思うだろう? でも、登ってしまうと、そこからは綺麗に見えた山って見ることができないんだよね」
坂田の言いたいことは分かるような気がする。遠回しだが、一番的確な表現であり、そんな坂田の粋なところが好きだった。
「女を抱くと、まるでその瞬間から自分の女になったと思い込んでいる男もいれば、逆に抱かれれば、その男を独占できるように勘違いする女性もいる。俺はそんな関係はウンザリなんだ」
まだ女性と一緒にいて、イチャイチャしていたいと思っていた年頃である。そんな気持ちだから、深い仲になれる女性がいなかったのかも知れない。坂田のセリフを聞くと、まるで百戦錬磨の人間が言うことだ。女性が嫌いというわけではないのだろうが、少なくとも斉藤とは考えがまったく違う。
「女に利用なんてされたくないからな。面倒くさいことは嫌いなんだ」
女性と付き合うことを面倒くさいなんて考えたことはない。大体面倒くさいのに、それでも女性と付き合っている気が知れない。
面倒くさいことはしたくないという思いを、人一倍強く持っていると思っていた斉藤は、
――面倒くさいことというのは自分にとって情けなく感じることだ――
と考えるようになっていた。
知らない人が彼の話を聞けば、まるで女性を利用しているように聞こえるだろうが、彼を知っている人間からすれば、そんなことはない。むしろ女性の立場を尊重して、男の側からだけの意見になりがちなところを抑えているのだ。
プライドが高いのは、斉藤自身、嫌ではなかった。プライドとは自信から生まれるもので、特に大学の頃など先輩から、
「ウソでもいいから、何か一つ自信を持てるものを作ることだ。いずれそれを本物にしようという気が起こればいいんだからな。少々のプライドの高さは、きっといい方に向けられるはずさ」
と聞かされて、納得しながらじっと聞いていたものだ。
自信のない人を見ていると、声も小さいし、何を考えているか分からないところが不気味だ。何よりも小さく見えてくる。それも困ったものだ。
車窓から流れる景色を見ていると、思い出したのがその話である。会社からの帰り、いつもボンヤリと車窓を眺めているが、その日は特に山肌に写った景色が綺麗だったからかも知れない。
遠くに見える山は、もうそろそろ五月だというのに、頂上付近にはまだ白いものが残っていた。雲ひとつない晴れ上がった山のてっぺんだけに、目立って見える。
最近の特急電車は実に静かにすべるように走っている。乗っていて眠気を誘うのは、揺れと同時に田舎の単調な景色を見つめているのが原因かも知れない。気がつけば少し眠っていたようだ。
夢を見ていた。どんな夢だったか目が覚めるにつれて忘れていってしまっているが、その夢はいつかきっと思い出すことがありそうな、そんな予感がする夢だった。目覚めが普段よりもよかったことがそれを物語っていたのだ。
見つめている先に見える山肌は、今までに見た山に比べて一番美しい。幾何学的にも、まるで人工的に計算されて作られた山のように見えるくらいで、自然が作り出すものに、我々人間の考えなど及ばない何かがあることを思い知らされた。
かなりなスピードで目の前の景色が走り去っているが、山はずっとこちらを見つめたままだ。それだけ遠いことを表しているが、揺れの小ささも手伝ってか、時間の経つのを忘れてしまっているようだった。
単調な景色が、次第に賑やかになっていく。民家が少しずつ増えてきたかと思うと、途中にある川を境に、急に景色が一変する。
アナウンスの前の音楽が流れ、電車が次の駅へ近づいてきたことを告げる。相変わらずのスピードで街を走り抜けていく電車だが、そろそろ降りる支度を始める人が目立ってきた。斉藤もこの駅で降りるのだが、慌てることはない。何度かこの街に出張でやってきたことがあるので、ゆっくりでもいいことは分かっていた。連結器から、線路が次第に増えてくるのが見える。そろそろ降りる用意をすればいいだろう。
荷物と言っても、アタッシュケースが一つだけ、何度も来ているところなので、それほど資料があるわけでもない。いわゆる定期的な巡回に近いイメージの出張である。
ホームに降り立つと、やはり都会とは少し温度差があるのか、肌寒さを感じる。山に残っていた雪を思い出していた。
時間的には、もう昼をまわっている。暖かくなってしかるべき時間なのに、これだけ肌寒いと、朝晩はかなり冷え込んでいるに違いない。
――しまった、少し薄着だったかな――
スーツだけで、上に羽織るものを持ってこなかったことを少し後悔した。しかし、今回の出張は一泊二日だけの予定なので、何とかもつだろう。
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次