短編集88(過去作品)
と思えるほど、上り口が小さくそして薄暗く見えていた。確かに下から見るよりも上から見た方が小さく見えるものだが、それにしても、今見ているのは極端すぎる。しかも不思議なことに、下には何もないのに、どこからか影が伸びているような気がして仕方がないのは目の錯覚というだけで済まされるものだろうか。
昇ってきた階段を見ると、まだ靴音が残っているように感じる。耳鳴りとなって響いているが、規則的に乾いた音が鼓膜を刺激しているようだ。
下の明るさもまるで昔のアパートのように暗い、電気が切れ掛かっているのかと感じたがそうではない。明らかに明かりの色が違うのだ。
白光色のクッキリとした明るさではなく、かすかなオレンジ色を含んだ裸電球の明かりを思い起こさせる。
二階の部屋の前に立ち、いつものように呼び鈴を鳴らす。新婚時代というわけでもないので新鮮味はないが、逆に唯一新婚時代と変わっていないことといえば、呼び鈴を鳴らすことだけだというのも悲しいものだ。
「ただいま」
呼び鈴を鳴らしておいて、鍵を開ける。これも昔からまったく変わらない。扉がやたらに重たい、引っ張られる感覚なのだが、ちょうど調理をしている時間だということを考えれば、換気扇を使っている可能性は高い。マンションの換気扇は吸引力が厚く、まるで真空状態をこじ開けるようなものだ。今までに何度か感じていることだった。
部屋の中から暖かい空気が流れてくる。ホッとした気持ちになれる瞬間だ。しかし、次の瞬間に嘔吐を催した。一瞬なぜか分からなかった。
――クリームシチューの匂いだ――
甘ったるさの中に濃厚なミルクの香り、実は勉は乳製品が苦手だった。
――なぜなんだ? 嫌がらせでもあるまいに、一体どうして妻はクリームシチューなどを作っているんだろうか――
嫌がらせを受けるほど、夫婦関係は混乱していない。いや、混乱しようにも、冷え切ったところがあるくらいなので、真意のほどが分からない。
最近よく見る夢がまさか現実になっているのではあるまいか。
部屋に帰れば知らない女、一瞬ビックリさせられるが、顔を見ていると以前から知っていたような錯覚に陥る。
――そうだ。以前に雑誌で見て、気に入った女性の顔だ――
写真だけだったが、その向こうに見える影が、少しだけ立体感を感じさせ、浮き上がらせているかのようだった。
その女が目の前にいる夢、夢だからこそ、平面である写真に違和感がない。
――この女のことはなぜか覚えているんだよな――
そんなことを考えながら開いた部屋の扉、果たしてそこにいるのは妻ではなかった。まるで影だけのような薄っぺらい女が、いつまでも変わることのない笑顔を浮かべ、凍りついた空気の中で佇んでいた……。
( 完 )
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次