短編集88(過去作品)
しかし、西の方に雲はなく、西日は容赦なく照りつける。それだけに気温は高く、しかも湿っているために、身体に纏わりつくような気持ち悪さがあるのだ。いつも感じている夕方と夜の帳の共有、まさにそれを今感じているのだ。
本屋を出ると、西日に向って歩き始める格好になる。ゆっくりと歩いていいのだが、ゆっくり歩くと却って疲れが増してくるような不思議な感覚だ。
――足が重たい――
思ったよりも足が上がらない。本屋から少し歩くと、昔は田んぼのあぜ道だったようなところを歩くので、歩道も整備されていない道である。舗装はされているが、ところどころにデコボコがあり、歩いていて何度つまずきそうになることだろう。
息が切れてくるようである。背中にはほんのりと汗を感じている。きっと立ち止まると一気に汗が噴出してくるに違いない。
何とか歩いてくると、公園に差し掛かる。公園のベンチで一休みできるというのも計算に入っていた。しかし、公園のベンチに座っていると却って気分が悪くなることがある。それはきっと風邪を引いて早退した時に、ベンチで座った時の感覚が残っているからだ。気持ち悪かった感覚というのは、そう簡単に忘れられるものではない。
――あのベンチだったな――
公園が見えてくると、最初に目に付く場所である。公園の入り口を入って一番奥なので遠くに見えるのは当たり前だが、近づくにつれて、どんどん遠ざかっていくように思える時がある。そんな時は得てして体調のいい時だったりするのだ。
体調のいい時は、公園を意識してもあまりベンチを意識しない。意識すると体調を崩してしまいそうになるからだ。
四郎は躁鬱症の気がある。躁状態の時はいいのだが、鬱状態になりかかる時は予感めいたものを感じる。そんな時、公園のベンチが頭の中で巡ってくるのだが、そんな目でいつもベンチを見つめているのだろうか?
ベンチに座るまでにどれだけの時間が経ったことだろう。あれだけ遠かったベンチに座って公園の入り口を見ると思ったよりも近くに見える。
座ってホッとしたように、ふぅと溜息をつくが、思ったとおり背中に掻いていた汗が陣わりとシャツを濡らしている。気持ち悪くなってきたが、却ってだるさが引いてくるのではないかと思えることもあって、少し落ち着くことにした。
公園には犬を散歩させている人が多いことに今さらながら気付いたが、目の前に歩いてきた人がこちらを見て立ち止まっているように見える。その人は夕日を背にして立っているので、顔までハッキリとしていないが、華奢な身体つきから、女性であることは明らかだった。
「あの……、八幡さんですよね?」
少しハスキーで押し殺したような声に最初は誰か分からなかった。恥じらいのある喋り方の女性に知り合いなどいないはずだったからだ。実際、恥じらいのあるようなオドオドした喋り方をする女性にゾクゾクしてしまうタイプで、そんな人を忘れるはずもない。
いつもは元気一杯に店内で声を張り上げている彼女は、馴染みの居酒屋でアルバイトをしている女の子の一人だった。アキちゃんである。気になる存在だったが、声を掛けたことはなかったのは、自分よりも古くからいる常連に気を遣ってのことだった。
足元には繋がれた子犬がいた。犬の顔はブルドッグのようだが、もう少し小型なので、パグであろう。パグは、その顔とは正反対に一番従順な犬であるらしい。犬好きの人がいうのだから間違いないだろう。繋がれた犬が不思議そうに下を出してハァハァ呼吸しながら四郎の方を見上げていた。
それほど、きょとんとした不思議そうな顔を四郎がしているのだろう。
その顔で見上げると、今度は目が慣れてきたせいか、相手がおぼろげながら分かるようになっていた。
シルエットとして影のように浮かび上がると、実際の大きさよりも一回り大きく見えるようだ。最初に感じたのは、華奢なので女性だと思ったが、
――それにしては、大きな女性だな――
ということだった。しかし目が慣れてくると、それほど大きな女性ではなく、見た目の華奢な身体に似合っている大きさに思えてくる。四郎が知っている女性の中でも小さい方かも知れない。
今まで学生時代に好きになった女性も何人かいた。ほとんどが華奢な感じの女性で、身長もそれほど高くない。抱きしめると折れてしまうのではないかというほどだった。
四郎は自分がスリムなので、本当は少しグラマーなくらいの女性が好きなのだが、なぜか付き合うのは華奢な女性が多い。
元々自分から好きになった女性と付き合うことはあまりなかった四郎なので、それも仕方のないことだが、それは好きになる人が、揃いも揃って彼氏のいる人ばかりだったからである。
――人のものを取ってはいけない――
聖人君子というわけではないが、彼氏がいると分かった瞬間から身を引いてしまう。愛が冷めてしまうわけではないのにどうしてなのか自分でも分からなかった。
引っ込み思案といえば聞こえはいいが、なるべく危険な道に踏み込みたくないという防衛本能が働いたりする。しかし、不倫や浮気というのに憧れがないわけではない。矛盾した考えが頭の中を渦巻くこともあるのだ。
――スリルや快感を欲するのは、誰だって同じさ――
と言い聞かせていた。だが、自分にできるはずもないという思いも強いのは、それだけ自分が器用ではないことを示していた。
「お前はすぐに顔に出るからな」
よく言えば正直者ということになるだろうが、四郎自身は短所のように思える。学生時代までは長所だと思ってきたのに、不思議である。
顔に出ると、相手が信用してくれなくなる。相談もあまりされないし、話の中で自分の存在が次第に小さくなってくるのだ。
学生時代まではそれでもよかったが、社会に出て、しかも管理職が近づいてくれば短所でしかない。
――短所を直すよりも長所を伸ばしたい――
これは学生時代から考えていたことだ。中学時代の先生がそういう教え方をしてくれていたのにそれに気付いたのは大学時代だったなんて、皮肉なことである。
声を掛けられ、しばしキョトンとしていたが、アキちゃんもそんな四郎をじっと見つめているだけだった。あどけない表情に魅入られていたのかも知れないが、彼女がニコッと微笑んでくれたおかげで我に返ることができたように思う。
「このあたりに住んでいるっていうのは知っていたけど、会えるとは思わなかったよ」
とは言ったものの、このあたりを散歩している時、アキちゃんの顔が思い浮かばなかったといえばウソになる。出会えるのを楽しみに歩いていたのだ。
しかし、その思いを知ってか知らずか、
「そうですね。世間は狭いですね。私も最近犬を飼い始めたので、よく公園には散歩に来ますのよ」
と犬を見下ろしながら話している。犬にも彼女の気持ちが分かるのか、見つめられると見つめ返す、そのつぶらな瞳を見ていれば、きっと嫌なことがあっても忘れることができるのだろう。
「犬は裏切りませんからね。一緒にいれば気持ちが通じ合えるように思うんです」
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次