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短編集88(過去作品)

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 最初は気付かなかった。相手も分からなかったのは当たり前で、常連ともなると指定席は決まっているもので、お互い離れたところに座っているので分からなくても当然だ。
 その店に最初に入ったのは偶然だった。一度旅行に出かけた時に入った居酒屋の雰囲気に似ていたのだ。旅行も好きな土地でのことなら案外しっかり覚えているもので、看板の明るさや、暖簾の模様までそっくりならば、さすがに気になるというものだ。
 それでも恐る恐る入った。一見さんを嫌がる頑固なおやじもいるので、どうしても入りにくい。だが、その時は店の雰囲気で旅に出た時の開放感を思い出したことから、違和感なく入ることができた。
 その時に店の中には誰もいなかった。
「ビールをください」
 夏の暑い時期だったので、夕涼みがてら立ち寄るには最高の場所である。駅からはそんなに近くないので
――儲かっているのかな――
 などと余計な気を回してみたりする。
 しかしやはり大きなお世話だった。常連がたくさんいて、その人たちが店を盛り上げている。ビールをジョッキーで半分くらい飲んだ頃には、店にどんどん客が入ってきたのだ。
 皆の会話を聞いている限り、それぞれをよく知っているようだ。しかし、日常生活についての会話というより、趣味の話が多いことから、どうやら常連としてこの店の中でだけの知り合いというのが多いように思えてならない。
 趣味で盛り上がるのは、釣りの話と野球の話だった。釣りというと少し年配の常連さんで盛り上がる話題で、野球になると、若い人の方が盛り上がっている。
 四郎は野球の話に耳を傾けることが多い。
 学生時代は少し野球をしていたこともあって、話を聞いていて思わず専門的なことで口を挟みたくなるのを必死で答えていた。
「野球って皆好き勝手なことが言えるから楽しいんだよ。やってる者はたまったもんじゃないけどな」
 新聞社に就職した友達が、スポーツ部に配属されて話していた。確かにビールでも飲みながら好き勝手いえるのがプロ野球の醍醐味だ。テレビの前では皆が監督で、解説者になれる。
 そんな店に入ったのも何かの縁だろう。野球漫画であるプロ野球選手の馴染みの店が舞台になっているのがあったが、それを見て馴染みの店を持ちたいと思ったといっても過言ではない。
 もちろんそのプロ野球選手というのは架空の人物だが、キチンとモデルがいるらしく、きっとモデルになった店もどこかにあるのだろうと思うと、野球の話題で盛り上がる居酒屋は四郎が捜し求めていた店を見つけたようなホッとした気分になれる。
 テレビを見ながら飲んでいると、時間を忘れられる。それまで自分の部屋ではテレビで野球をやっていても、真剣に見ようとは思っていなかった。とりあえずテレビがついているという感じで、集中して見ていないのだ。
 集中していると時間が早く経つものだ。だが、自分の部屋にいる時だけは違う。どんなに集中していても経つ時間が何ら変わりなく感じられる。
 それは野球を見ている時だけとは限らない。部屋ですることは学生の頃から、「ながら」だった。何かをしながらテレビもついているという環境にずっと慣れてきているのだ。
 だから、部屋で連続ドラマを見るということはあまりない。今ではビデオにバラエティ番組を録画しておいて見るくらいだ。それも何度も何度も繰り返して……。要するに考えることをしたくないのだ。
 仕事を家に持って帰ってやろうと思ったことも何度かあった。しかし、帰ってしまえばカバンを開くことはない。会社で自分の部屋を思い浮かべると落ち着いて元気が出るのだが、仕事が終わって帰り着くと、元気はまったくなくなっている。不思議なものだ。
 そんな時に見つけた居酒屋は、家の近くということもあり、酔っていても十分帰りつくことができるのがありがたかった。実際に酔いつぶれてどうやって帰ったか覚えていないことも何度かあった。
 馴染みの店を見つけると散歩も楽しくなる。居酒屋で見かける常連さんは、昼と夜でこれほど表情が違うのかと思えるほど落ち着いて見える。きっと向こうにも同じように四郎が見えていることだろう。
 お互いに軽く会釈を交わし、終始笑顔だ。ぎこちない笑顔はアルコールが入っていないので、本当の笑顔のように見えるが、ひょっとしてアルコールが入っている方が本音の自分を出せるのではないかとも感じていたりする。
 馴染みの居酒屋でアルバイトをしている一人の女の子、皆からアキちゃんと呼ばれているが、本名は知らない。
 年の頃は四郎と同じくらいだろうか? いつも忙しそうにしているのは、あまり器用な性格ではないからかも知れない。しかしそこが却って可愛く見えるというもので、いじらしさが滲み出ている。
 店で何度話しかけたいと思ったことか。しかし忙しそうにしているのを呼び止めるわけにもいかず、他の客にアキちゃんを見つめているのを、変に悟られるのも癪だった。とりあえず遠くから見つめるような目でいるしかなく、その目は我ながら優しさに満ちているように思えた。
 どうやら彼女は、近くに住んでいるようだ。客の噂だけなのでハッキリとはしていないが、どうやら離婚して間もないということだった。幸いにも子供がいなかったので、とりあえず近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。それを聞いてさらに彼女を健気に感じていた。
――散歩をしていれば会えるかも知れない――
 そんな下心もあった。会ったら何を話そうかなどという具体的なものは何もない。しかし散歩していて、目の前から彼女が歩いてくるシチュエーションは何度となく想像している。
 きっと公園に行ってベンチに二人で座るだろうというところまではいつもの想像の範囲内である。
 その日の散歩はゆっくりだった。昼間から出かけて、途中本屋に寄ったりしていた。夕方居酒屋に直接寄ろうと思っているので、時間を潰さなければならない。ゆっくり本屋に寄るのもそのためで、最近本を読んでいなかったことに気がついた。
 それにしても贅沢な時間の使い方である。却ってなかなか時間が過ぎてくれなくてイライラしたりもするが、それは贅沢の反動なのだろうか? 日頃、
――時間がもう少しあれば、もっといろいろできるのに――
 と感じているのがウソのようである。
 忙しい時に感じているいろいろとは、一体何なのだろう? その時は分かっているはずなのに、すぐに忘れてしまう。最近の記憶力の低下には目を見張るものがあり、実に困ったものだ。
 本屋では歴史コーナーに立ち寄った。いつもなら文庫本のコーナーなのだろうが、その日は歴史コーナーに寄った。幕末から明治時代に造詣が深く、その時代の本を読んでいると時間を忘れることができるからだ。
――気がつけば足が痺れていた――
 などということも珍しくなく、時計を見て、
――こんなにも時間が経っていたんだ――
 と、初めて納得することも多かった。
 本屋を出る頃には少し足に張りを覚えていた。だるさを感じるのは、表が生暖かいからかも知れない。空を見ると少し雲が出てきていて雨が降り出しそうなのだが、最近の天気の傾向として、
――降りそうで降らない空模様――
 と言われているが、まさしくその表現にピッタリの空だった。
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次