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短編集88(過去作品)

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――決して暗いことなどないんだ――
 と思わず、自分に言い聞かせていた。
 新聞を読んでいるサラリーマンもいれば、斉藤と同じように窓際に座って、コンコースを眺めている女性もいる。彼女は斉藤と目的は違うのだろう。コンコースを見るとしても、誰かを探している目ではない。漠然とコンコース全体を見ているような気がしてならないからだ。
 そんな彼女と目が合ってしまった。最初から合わせるつもりではなかったが、漠然と見ているという感覚が分かった時に、偶然目が合ったのだが、彼女はそれを笑顔で返してくれた。却って斉藤の方が戸惑いを感じたが、屈託のない笑顔を見ていると、自然と頬がほころんでくるのを感じ、気がつけば微笑み返している。
――どこかで見たことのある笑顔だな――
 と思わずにはいられない。その日に待ち合わせをしようとした彼女に似ているように思えてならない。
――あの笑顔に魅せられたのかな――
 と思わないでもない。彼氏がいるのに友達として付き合おうという気になるのは、どこかに魅力があるからだ。
 以前、女性と知り合った時に、その女性が面白い話をしていた。
「男性はどうか分からないんだけど、一旦男と女の関係になったら、そこには友情なんて存在しないのよ」
「どうしてだい? 情が湧いてくるものじゃないの?」
「そんなことはないわ。却って身構えてしまうのかも知れないわね。踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったように思うのよ」
 その時、斉藤はまだ女性を知らなかった。女性の身体を神秘的だと思い、淫らな妄想を描いてしまう自分を感じていた頃である。
「身構えてしまうというのが分からないんだけど、愛し合うから男女の関係になるんじゃないのかい?」
「普通はそうね。でも、寂しさからお互いのぬくもりを感じたいと思うこともあるでしょう? 最初は一方だけの気持ちであっても、それが強ければ相手にも伝わるもの、寂しくない人間なんて所詮いないんだから、相手の気持ちが分かれば、お互いに後は気持ちと身体を貪るようになっても、それは無理のないことなのよ」
 確かにそうだろう。女性に淫らな感情を抱くのは生理的なものだと思っているが、そこに気持ちが入ってくれば求め合っても当然だ。そこに愛情があるかないかは二の次なのであって、後になり、愛情が存在していなかったと感じればどうなのだろう? 彼女はそれが言いたいのかも知れない。
 理屈では分かっているつもりである。だが、それでも男と女の関係になれば友情がなくなってしまうというのは何となく違うような気がする。
――自分の経験が浅いからそう思うだけなのだろうか――
 という結論に行き着いてしまう。
 目の前の女性には大人の女性を感じていた。
 結局、二時間待たされた。途中で何度か、
「もう少し遅れそうなの。ごめんなさい」
 という電話があったが、申し訳なさそうに話すその声を聞いていたら、
「いいよ、もう少し待っているからね」
 としか答えられない。だが、もう少しと言いながら結局二時間待った斉藤も斉藤だが、申し訳なさそうにしながら日にちを変えようとしなかった方も、斉藤の気持ちを分かっていたのだろうか?
 その日彼女は彼氏との別れ話で揉めていたようなのだ。
――別れたあとで、一人でいるのは寂しい――
 という理由で斉藤と会う約束をしていた。彼女は正直その日は彼氏とのことで精一杯だったようだ。だからどうしても斉藤のことは二の次になってしまい、遅れても待っていてほしいという一心で何度も遅れるという電話をかけてきたのだ。
 何とか別れることができたようだ。その日現れた彼女の顔は疲れきっていて、とにかくゆっくりさせてあげたいという気持ちになった。トイレに行って自分の顔を鏡で見た斉藤の表情も疲れきっていたが、それよりも彼女のことの方が気になったのは、最初に表れた時に見せた求めるような潤んだ眼を見てしまったからに違いない。
 疲れているのと求めるような表情との見分けがつかない。どこまで相手の気持ちに触れることができるか、いまだに未知の世界のように感じる瞬間である。
 どんな会話をしていいか分からない。きっかけがないのだ。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
「いいんだよ、顔見たら安心したからね」
 話をしているだけで、彼女が別れてきたのだと直感した。
――彼女を抱きたい――
 そう思ったのは、急に身近に彼女を感じることができたからだ。
 待たされた二時間があっという間だったような気がする。さっきまでは、気持ちに余裕を持って待っていたのだが、それは自分にプライドがあるからだと思っていた。
――途中で帰ってしまったら、きっと後悔してしまう――
 という気持ちが強かったからだ。
 その日の彼女は積極的だった。斉藤もその時初めて彼女の名前を呼び捨てにした。
「なみ、二人きりになろうか?」
「ええ、一緒にいさせて……」
 ホテルの扉を閉めて二人だけの世界になると、お互いの身体を貪っていた。少なくとも斉藤にとっては。今まで溜まっていた気持ちが一気に爆発したものだったが、なみも同じだっただろう。
――たった今、男と別れてきたばかりの女には思えない――
 男と別れて寂しさから一緒にいる男にしがみつきたい気持ちだけに違いないのだろうが、それだけだとは思えない。
――なみの身体は初めて抱くんじゃないように思う――
 そんな気持ちがあったからだろう。
 その日ほど気持ちに高ぶりを感じ、お互いを貪るように愛し合ったことは後にも先にもなかったことだ。思い出しただけでも身体が熱くなる。気持ちの高ぶりは永遠に続くように思えたが、気持ちがなみの中に放出されるまではあっという間だったように思う。
「ごめん。もっと愛し合っていなければいけなかったね」
 と謝ったように記憶しているが、それも果ててしまってだるさの残った中での朦朧とした意識の中の記憶でしかなかった。女性の中に気持ちをぶちまけた後は、往々にして気だるさの中に朦朧とした意識だけが残るものだが、その日の朦朧さは今だかつて経験したことのないものだった。そんな中でよく考えが浮かんだものだと我ながら感心してしまう。
 なみと付き合うようになったのは、それからしばらくしてからのことだった。愛し合ったつもりでなみと付き合うことになるだろうと思っていたのだが、しばらくなみから連絡がなかった。
――あの日だけのことだったのかな――
 愛し合ったことに後悔などはなかったが、すべてを意識が朦朧とした中でも幻として終わらせるのはあまりにも残念だった。それだけになみから、
「また会いたいの」
 という連絡を受けた時は嬉しかった。会ってから少し話をしたが、目的はお互いの身体で気持ちを確かめあうことだった。それはなみも斉藤も同じ気持ちだったようで、ぎこちなくなった会話もそこそこに、ホテルのベッドで、お互いを貪る……。
――何か違うような気がするな――
 とは思っても、本能には勝てない。気持ちが身体を欲するというのは正直な気持ちで本能だと思いこそすれ、何の無理もないことだ。
 ともすれば自分の中のプライドを忘れかけてしまう。
――自分からプライドを取ったら何が残るのだろう――
作品名:短編集88(過去作品) 作家名:森本晃次