過去への挑戦
確かにすぐに人の影響を受けてしまうという人は案外少なくないかも知れない。しかし、ここで誤解のないように言っておくが、人の影響を受けやすいというのは、人の命令を忠実に聞くと言ったような、まるで「しもべ:のようなものではない。しもべというのは、自分の意志で、あるいは脅迫をされて否応なしに従わされている場合などをいうのだが、ここでいう人の影響を受けるというのは、本人にその意識がない場合が多いということだけは言っておこう。だが、この時の詩織の場合は、自分でも分かっていることではあったのだ。
詩織という女性は、ハッキリ言うと、
「よく分からない女性」
ということだった。
だから、それを分かっている人は彼女に近づこうとはしない。そばにいても、意識しないのは、詩織の石ころのような性質からというのもあるが、目の前にいる方の人も、意識したくないという思いもあることで、余計に詩織を石ころ以上の意識しない存在に作り上げたのかも知れない。
そういう意味では、詩織という女は実に恐ろしい存在だった。そのことを皆分かっているkら、彼女の無表情に恐ろしさを感じ詩織自身も、それを自分の武器のように感じていた。ただ一人、川口青年を除いてはである。
川口青年は今までに女性を好きになったことがなかった。思春期はちゃんと他の人と同じ中学時代に訪れていたが、どうにも好きになれる女性がいなかった。
だからと言って、彼が朴念仁であったり、女性に興味がないわけでもない。普通の健康的な男子であり、我慢できなくなる時もあったが、そんな時は他の少年同様に、一人で慰めることもあったくらいだ。
ただ、それを川口青年は悪いことだとは思っていない。むしろ健康的な男子なのだから当たり前だと思ったくらいだった。
――そんなことに罪悪感を覚えるくらいなら、普通に女の子を好きになれるさ――
とまるで、開き直ったような感覚を持っていた。
好きななりそうな女の子が現れなかったのは、彼の理想が高かったからであり、それに似合う人がいなかっただけのことだ。
いや、理想が高いというよりも、他の人とは違う理想を持っていたというべきであろうか。
「理想の高低など、誰に分かるというのか。その基準を決めるのは、一体誰だというのだろうか」
と思っていたのだ。
そんな彼のメガネにやっとかなったのが詩織だった。
詩織は彼のそんなおかしな性癖や性質が分かっていたので、決して相手になろうとは思わなかった。しかも、詩織は人の影響を受けやすいタイプなので、そんな変なやつに付きまとわれて、これからの自分を見失ってしまうなどということはしたくないと思った。そういう意味で詩織がこの教室で最も警戒していたのは、実は川口青年だった。
詩織は、引っ越すということを実際には喜んでいた。
――これで川口さんと離れられる――
という思いが手放しの喜びを伝えてくれる。
川口は詩織がそんなことを思っているなどまったく知る由もなかった。川口という男は実際には鈍感であり、まわりの人が、特に自分のことをどのように思っているかなど、まったく気づかない男だった。
そこが詩織とまったく違うところであり、よく分かっている詩織がいつも無表情だったのは、一番には川口青年を警戒していたからだった。
いよいよ記念写真もできあがり、見たい人は見るようにした。
「あれ? これって」
一人が呟いた。
すると近くにいた女性が、
「あら、本当だわ」
と、勝手に二人だけで納得している。
「なんだなんだ?」
と皆が駆け寄ってきて、デジカメの画面を覗いてみた。
「ね、変でしょう?」
というと、皆肩が揺れていて、口元が緩んでいるのを感じた。何かが可笑しくて笑っているのだ。
「どうしたの?」
と覗き込んだのは、主役の詩織だったが、彼女も、
「あっ」
と言って、ちょっと後ろに下がった。その写真には、皆が中途半端に距離を取ってしまったために、一人が半分しか映っていない。しかも、身体が傾いている。
――明らかに誰かがついたんだわ――
と、詩織は気付いた。その身体が切れている人は、美佐子さんだったのだ。
美佐子さんはそれを知らずに、写真を見に来ようとはしない。その場に黙って下を向いていたが。その表情は、何か怒りに震えているようだった。
――おかしいわ。美佐子さんは自分が切れているのを見たわけではないのに、どうしてあんなに震えているのかしら? やはり誰かに突き飛ばされたという意識があったのかしら?
と感じた。
だが、その震えは怒りではなく、何かを怖がって震えているようだった。顔を上げられないのはそのためだった。
「どうしたの?」
詩織は心配して声を掛けた。
詩織にとっては他の人は好きになれなかったが、美佐子だけは何となく気が合いそうな気がしていた。ほとんど話をしたことがなかったのだが、引っ越してしまうことで、そのことが気がかりだった。
――もう少し話しておけばよかった。仲良くなれたと思うのにな――
という思いがあった。
だが、美佐子に声を掛けたのは詩織だけだった、他の人は誰も声を掛けない。
――美佐子さんが怒っていると、皆思っているなのかしら?
というものだった。
美佐子と他の人との確執は、何となく見ていて分かった。美佐子と話が合うのではないかと思ったのも、自分と同じように美佐子も他の人と気が合わないのだろうと思ったからだった。
詩織は人の影響を受けやすいは、実は美佐子にも似たようなところがあるようで、詩織は知らなかったが、美佐子の方ではウスウス気付いていたようだ。本当は美佐子の方も、もっと早くに詩織と話をしておけばよかったと思っている。
詩織は美佐子にデジカメの写真を見せた。見せないと却って中途半端になると思ったからだ。
するとその写真を見た美佐子は、今度は本当に震えが止まらないとばかりにゾクゾクとし始めた。
「どうしてこんな……」
と、何に怯えているというのだろう。
もし誰かに押されたのだとすれば、それは写真を見る前から分かっていたはずだ。そして分かっていたからこそ、最初から震えていたのではないか。
――どうも美佐子さんの態度には矛盾がある――
と、詩織は感じた。
今度は川口が覗き込んだ。
「詩織さん切れてるじゃないか」
と口に出してしまった。
何と無神経な人なのだろうか。他の誰もが可笑しくて笑ってはいるが、決して本人に聞こえないようにしていたのに。こんなやつは確かにグループの中に一人や二人はいるが、子供じゃあるまいし、口に出すなど誰もが信じられなかった。
それを聞いた美佐子はさらに深刻な顔になった。何が彼女をそのように恐怖へと誘うのか、誰にも分からなかったのだ。
凶行
その日の教室が終わってからは、皆いつものように各々の家に帰っていった。美佐子も落ち着きを取り戻し、詩織に対して、
「ごめんなさいね。せっかくの最後だったのに」
と言って、まだ顔は青かったが、何とか冷静さを取り戻したようで、ほっと一息の詩織だった。