過去への挑戦
そんな人が自分のことを分かっていると言っても、表に出ている自分を分かっているだけであって。それは他の人とレベルが同じではないかと思うのだ。つまり表面上しか見えていないので、それは自分を客観的にしか見ることができない人だということになる。
確かに自分を客観的に見るというのは必要なことだが、主観的に見ることができての客観的なのではないだろうか。
「自分のことも分からないやつが、他人のことなど分かるはずはない」
と言われるが、まさにその通りであろう。
そういう意味で、グループの輪の中心にいる人は、自分を客観的に見ることもできるが、主観的に見れる人なのであろう。輪から離れている人は、自分を主観的に見ることもできるが、客観的に見れる人ではないだろうか。その違いではないかと思っている。
一番厄介なのは、輪の中心でもなければ、離れているわけでもない。いわゆる、
「腰巾着」
のような連中ではないだろうか。
そんな連中は、自分を客観的に見ているつもりで、実は主観的に見ているために、自分を見失っているのではないか。
だから腰巾着になるのであって、自主性もなければ、相手にすべてを委ねることもしない。
最初に決まったことを後になって覆そうとする人というのは、こういう腰巾着の人ではないだろうか。
川口は、それでもその日、何とか詩織と話ができるようになりたいと思っていた。もちろん、これが最後になる可能性が限りなく高いわけだが、
「彼女を正面から見つめてみたい」
という気持ちが強いのも事実だった。
――彼女は、僕の視線をどう思うだろう? 気持ち悪いと思うか、それともまっすぐにその真剣な眼差しを向けてくれるのだろうか?
想像することも、最初は悪いことである。
本当にネガティブな性格だった。
だが、詩織も同じような雰囲気であるが、決してネガティブではなかった。むしろ、妄想、想像という意味ではポジティブと言ってもいいのかも知れない。今まで彼女が人と話をしなかったのは、自分の中の自分と素直になって話ができたからだ。自分の中のもう一人の自分は、決して詩織のことを否定しようとはしない。川口のような、
「悪魔の囁き」
が聞かれることはなかった。
詩織は、メルヘンを夢見る女の子で、料理教室に通うようになったのは、これから現れる「白馬の王子様」が現れても、困ることがないようにだった。
他の女性のほとんどは、
「白馬の王子様を探そう」
という露骨といえば露骨な発想であった。
だが、これもポジティブという意味でいけば、決して悪いことではない。むしろいいことなのかも知れない。
詩織は最初から、
「白馬の王子は必ず現れる」
という、
「王子様ありき」
だったのだ。
詩織はそんな状態の自分が普通だと思っていた。
これから好きな人を探すという発想ではなく、自分を好きになってくれる人を待っているという感じなのだ。
他の女性から見れば、
「何、気取ってるのよ」
と言われることだろうが、詩織はそれを普通だと思っているので、まわりがどう思おうが彼女には関係のないことだった、
だから、詩織は自分がまわりの人とかかわりを持たないことを悪いことだとは思っていない。なぜなら、
「私には私の目的があるから」
というのがその理由だった。
料理教室という団体ではあるが、実際には個人レッスンでもいいくらいのものにも思える。もちろん、友達を作るであったり、恋人を探すという一種の見合い間隔での参加も多いのだろうが、純粋に料理を習うということであれば、花嫁修業としてのものとして、別に他人と仲良くする必要もない。中には結婚が決まっていての花嫁修業という人もいるだろう。
いや、それが一般的なのかも知れない。
そう思うと、詩織の方が料理教室の本来の生徒であって、他の人は目的の違う、一種の邪道だと言ってしまうのは、乱暴であろうか。
もし、詩織や川口に偏見を持っている人がいるとすれば、それは絶対に違う理屈であって、それを分かっていないと、団体としてはうまく行かないような気がしていた。
だが、兎にも角にも、詩織の転勤は決まってしまったので、いやが上にもこの教室を卒業しなければいけないのは事実である。
この日は、思ったよりも時間が早く過ぎたような気がした。それはこの日この教室にいたすべての人々が感じたことで、先生もその一人だった。
どうして皆早く感じたのか、それは人それぞれであろうが、詩織は、さすがに卒業する本人なので、
「今日が最後なんだ」
と思うと、感無量になったとしても、それは無理もないことだろう。
川口もそんな詩織を距離を置いて見ていた。近づきすぎないように注意をしたのは、詩織に自分が意識していることを感づかれたくなかったからで、きっと今日は彼女が感傷的になっているだろうから、そんな時は神経が敏感になっているということは、川口にも分かっていた。
「記念撮影か」
まだ時間も半ばの時に、すでにラストの時間帯を想像していたのだから、それは時間が経つのが早くて当然というものだ。
そわそわしているのは、川口だけだった。他の人は詩織が今日で最後というのを意識しているのかしていないのか定かではないが、雰囲気としては、
「どこ吹く風」
であった。
もし、川口も自分が詩織を意識していなければ、同じような気持ちだったのではと思うと、何か罪悪感のようなものがあった。その思いは、複雑な心境であり、その他大勢の心境だったのだということは分かっていた。
川口は、自分が人と同じでは嫌だと普段から思っていることを分かっているが、同じであっても嫌ではない人がいるということを意識したことがなかった。これだけ好きになった詩織に対しても、そんな感情を抱いたことはない。逆に、
――自分とは違う人なんだ――
と思っていた。
だからこそ好きになったのであってお互いに足らないところを補って、そして癒しあえるような関係が一番なのだと思っている。
それはその後の川口の人生でも変わることはないのだが、その時ふと、詩織に対して、
――この人は俺と同じではないか?
とも思うようになった。
そもそも何を持って同じだというのかというのも疑問である。
考え方が同じという意味? それとも性格が同じということ?
考え方が同じであっても、性格が同じだとは限らない。性格が同じであっても、考え方が同じだとは限らない。むしろ、この二つは似てはいるが、相反するものではないかとも思えてきた。
別に何か根拠があるわけではないか、川口は自分が今まで生きてきた中で感じたことだった。
では、彼の、
「人と同じでは嫌だ」
というのは、性格のことだろうか、それとも考え方なのだろうか?
川口はそれを自分では、両方だと思っている。
どちらが強いかと聞かれると、しばらく考えてしまうだろうが、結論は決まっていた。
「性格の方だ」
と答えるだろう、