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過去への挑戦

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 もっとも、自制心がある人が、最初のあんなオオカミのような表情ができるはずはないという思いもあった。それだけこの男の表現ぶりが美佐子には意外に思え、最初のオオカミのような表情に対する恐怖よりも、豹変してしまったという事実の方が、美佐子には恐ろしかった。事情が分からない恐怖というのがどれほどのものか、この時初めて感じたのではないだろうか。
 ただ、美佐子はオオカミのような社長の表情も、その後の情けない表情も、初めて見たわけではないような気がした。だが、自分が記憶にある中で、そんな表情を見たはずはないと思える。なぜならそんな表情を見たのであれば、それを忘れるはずはないという思いがあるからだった。
 表情というものは確かに一度見ただけでは覚えられないものかも知れないし、ちょっと見ただけでも恐怖なことなら記憶に鮮明に残るものなのかも知れない。
 それを思うと、どこかにその境界線があり、その境界線は人によって違うものではないのだろうか。
 今、社長室を出た美佐子は、さっきの社長の顔を思い出そうとしたのがが、もう思い出すことはできなかった。社長の顔すら思い出せない。そんな状態を自分でどう解釈すればいいのか、美佐子は混乱していた。
 したがって、今日のことを誰にも訴える気はしない。もっとも何もされていないのだから、訴えても証拠はない。
「顔が怖かった」
 と言っても、それは何の証明にもならないだろう。
 美佐子がこの社長室での記憶を思い出すことがあるとすれば、それはきっと数年後のことだろうと思ったが、これが予知だったと、その時の美佐子も思いもよらなかったに違いない……。

                  記念撮影

 料理教室が終わると、いつも一緒にいる利一は、
「ごめん、明日朝一番で出張なんだ。今日はこのまま帰る」
 と言って引き揚げていった。
 ななみの方も、
「いいのよ。明日出張なのに、今日のお料理教室に付き合ってくれて、本当に嬉しいわ」
 と言って、彼の気持ちをねぎらった。
「いやいや、僕もなるべくなら、ななみと同じ時間を一緒に過ごしたいからね」
 とありがたいセリフを言ってくれる。
 それがななみにとっての一番の癒しであり、安堵の時間でもあった。その日の料理教室ではちょっとした事件があった。新たな生徒が入ってきたり、誰かが卒業する時は、その日の講習が始まる前に、必ず記念写真を撮るようにしている。記念写真を撮ると、デジカメに収められた写真は、それぞれの携帯やスマホに送信される。もし、どちらも持っていない人には、カラー印刷でもらえるようになっていた。
 もちろん、両方を希望する人にはプリントもしてくれるというサービスだった。
 ただ、ななみはその日、急に用ができたということで、早めに教室を出た。その時に一緒に帰ってくれたのが、利一だった。
 その日は、一人の女性の生徒が転勤になったということで、仕方のない卒業ということになったのだが、そのことはその日が来るまで、教室側以外は誰も知らなかった。
 生徒も皆寝耳に水だったようで、
「どうして言ってくれなかったの?」
 と口々にそういって彼女を問い詰めた。
「ごめんなさい」
 というだけだったが、普段から彼女は物静かで、いるかいないか分からないような存在だった。
 だから、皆口では、
「そうして言ってくれなかったの?」
 と言ってはいるが、言ってもらったとしても、形式的な返事しかできないことは分かり切っていたことだった。
 つまり、彼女はいてもいなくても、どうでもいいとほとんどの人が思っていた。
 彼女の名前は、佐久間詩織というが、そんな彼女のことを機に掛けている男性もいた。彼は名前を川口といい、詩織のいるかいないかという存在を、清楚な雰囲気で、逆に自分には彼女しか見えていないとすら感じていた。
 もっとも川口という男性は、誰でもが好きになるような人は却って苦手で、逆に誰も気にしないような、いわゆるどこにでもいるような女の子の方が気になってしまう性格だった。
 彼はそれを、自分に自信がないからだと思っているようだが、実はそうではない。それが彼の、
「人を見る目」
 であり、人それぞれだということの証明でもあるのだ。
 彼にはまだそのことが分かっていないのだが、それでも彼女を意識してたまらない気持ちになることがある時、
――俺は彼女のことが好きなんだ――
 と思っていた。
 その思いは間違いのないもので、自分で思い込んだことは、間違いなくその人の本心である。危険な発想なのかも知れないが、それを認めたくない人に限って、その思いが自分の中の呪縛になっていることもあるだろう。
 川口は、詩織と話をしたことがなかった。詩織自身がほとんど誰とも会話をしないのだから当然と言えば当然だが、さすがに最後の日くらいは、何かを話さなければいけないと感じていた。
 しかし、心の中のもう一人の自分が自分に語り掛ける。
「今まで話もできなかったくせに、いまさらできるわけはないだろう。それにどうせ今日で終わりなんじゃないか。もし仲良くなったとしても、どうするんだ? 確かに遠距離恋愛という手もあるが、お前たちの性格で、それがうまく行くとでも思っているのか?」
 という、いわゆる
「悪魔の囁き」
 が聞こえてくるようだ。
 とは言って、この囁きは本当のことであった。何しろ語っているのは自分自身なのだから、自分の潜在意識にあることに違いない。潜在意識にあって、それを認めたくないという意識から、自分の中での葛藤が始まる。
 葛藤するには必ず相手が必要だ。その相手を求めたことから生まれたもう一人の自分。そう考えていくと、
――あれ?
 とふと感じてしまう。
 また同じところへ帰ってきたではないか。つまり負のスパイラルのように、ループしているということか? そのループは本末転倒であり、それでも理屈に合っているから厄介だ。
 川口は、自分のことを、
「いつも何かを考えている」
 と感じていた。
 それは、他の人から見れば、
「あいつは何も考えていない」
 と見えるか、
「一体何を考えているんだ?」
 と思われるかのどちらかであった。
 つまり、心ここにあらずと言った雰囲気を醸し出していて、要するに何を考えているのか分からないという思いをまわりに与え、しかもふと我に返った自分も何を考えていたのか覚えていないというような、妄想の世界に入っていることが多かった。
 だが、最近はその妄想の正体が分かってきたような気がする。
――俺は、もう一人の自分を会話しているんだ――
 という思いである。
「もう一人の自分」
 これをどうとらえるかというのも難しい。
 いつも自分のことを分かっていると豪語する人もいるが、本当に分かっているのか怪しいと感じることもある。その理由は、
「そんな人に限って、もう一人の自分の存在に気付いていないんだ」
 と思うからだった。
 普段からいつも何かを考えているように見えているのは、もう一人の自分と会話をしているからだと思っていると、もう一人の自分を信じていない人は、普段は何も考えていないのではないかという発想になるだろう。
作品名:過去への挑戦 作家名:森本晃次