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過去への挑戦

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 姉は義母と一緒に父親の暴力を受けていたが、なぜか美佐子にはつらく当たらなかった。その頃まだ小学生だったので、そこまでひどい目にあわなかったのかと思った。姉と母親が自分と父親の間に立ってくれたのだろうと子供心に思ったが、果たしてそうだったのか、悲劇はそれだけでは終わらなかった。

                 社長室

 姉が暴行され自殺した。この事件が公になると、父親はまるで逃げるようにしてこの街を去った。その時、大金を手に入れたというウワサもあった。それがどんなお金なのか分からなかったが、姉のことを忘れてしまったかのようにさっさとこの街を離れて行った父に、絶縁状を叩きつけるかのように母や、美佐子を連れて、父親から離れた。
「これでよかったのよ」
 と、母親はホッとした様子で美佐子に語り掛けたが、美佐子は心の中で、
――お姉ちゃんが死んでしまったのに、これでよかったなんて、どういうことなの?
 と呟いた。
 小学生の美佐子には分からなかったが、一つには姉は母親が自分の腹を痛めて生んだこではないということと、父親からの虐待から逃れることができたことを本気で喜んでいる証拠だった。
 もう少し自分が大人だったら、母の気持ちも分かっただろうが、あの頃はそんな理屈が分かるほどではなかった。しかも、自分だけがなぜか父親に可愛がられていたので、ピンとこなかったのも無理のないことだ。
 しかし、その母親も、しばらくは自分をちゃんと育ててくれたが、美佐子が短大を卒業する頃、勤めていたスナックの常連さんと、駆け落ちのようなことをしたのだった。
 もう年齢的に四十歳に差し掛かろうとしている時だったので、
「いい年をして」
 と思ったが、ひょっとすると、これが最後の恋だとでも思ったのかも知れない。この機会を逃せば、もう二度怒恋愛などできないと思えば、駆け落ちでも何でもするだけの行動力は持っていただろう。
 美佐子としては、ここまで育ててくれたのだから、感謝こそすれ、恨み言はなかった。せっかくだから、
「幸せになってほしい」
 と思うのは、娘としての最後の気持ちだろうと感じていた。
 その頃には美佐子も一人暮らしをするようになっていて、パートしかしていなかったが、一人なら何とかなると思っていた。
 ななみの父親の会社にパートで入るようになったのは、ちょうどそれから三年後くらいのことだった。
 いくつかパートを掛け持ちしていて、この会社での仕事は、掃除婦だった。夜の七時以降くらいから、会社のある事務所の掃除なのだが、残業している人の邪魔をしない程度にゴミを捨てたり、床を掃除したりなどの、派遣のような仕事だった。毎日、もう一人のベテランさんと一緒に入るのだが、仕事は手分けしてするようになった。美佐子は社長室の担当もしていた。
 最初は社長がいない時間帯の掃除だったが、ある日、ちょうど社長が執務中の掃除となった。社長室というのは、思ったよりも広く、奥の窓際に社長が執務する机があり、手前が応接になっていて、五人が座れる椅子が設置されていた。机の上には灰皿が置いてあり、社長が葉巻を吸うのか、葉巻入れが置かれている。まだ室内でタバコを吸っても別に構わない時代だったのだ。
 ある日、社長がちょうど執務している時、美佐子がいつものように入っていった。一応、社長がいるとまずいということで、まずはノックをしてから入ることにしていたので、その日も誰もいないものとしてノックをしたが、思いがけず部屋の仲なら、
「はい」
 という野太い声が返ってきた。
 一瞬、
――どうしよう――
 と思ったが、ノックをしておいて、なしのつぶてでは仕方がない。却って失礼に当たると思い、
「掃除の者でございます。室中でございましたら、あとにいたします。ご迷惑をおかけいたします」
 と形式的な挨拶をして、他のところを先にしようと思って、その場から立ち去ろうとすると、
「おいおい、大丈夫だ。私がいても構わないなら、掃除をしてくれたまえ」
 という声が思いがけずに返ってきた。
 せっかくそうおっしゃってくださっているので、無碍にそれを断るのは却って失礼だと思い、
「それでは失礼します」
 と言って、中に入った。
 ほうかぶりをして掃除の制服にズボンという、男女兼用の服を着ているむさ苦しい掃除婦を、
――社長が相手にするはずなどない――
 という思い込みで、社長と目を合わさないように中に入った。
「では、失礼してお掃除をさせていただきます」
 と言って、腰を曲げたばあさんのような状態で、掃除を始めた。
 社長も最初は自分の執務に一生懸命になっていて、机の上の書類にサインをしたり、印鑑を押したりしていたが、そのうちに美佐子を気にするようになっていた。
 視線を感じた美佐子は、自分が震えているのを感じた。
 その頃の美佐子は男性と一つの部屋に二人霧などなかったことで、しかも、空気の悪さを感じると、
――どこかで感じたことがあるような――
 という思いを抱いて、気が付けば身体を固くして、身構えているのを感じた。
 部屋の中は沈黙だけが流れていて、空気が湿っているのを感じた。湿った空気は却って喉の渇きを誘い、ついつい、ゴクンと無意識に喉が鳴っているのを感じた。
 それだけ喉がカラカラに乾いているのだろうが、それを見ると社長が舌なめずりをしたような錯覚に陥った。
 ビクンとなった美佐子は腰を曲げて首を下に下げ、目線だけがあらぬ方向を向いていたが、本当は怖くて見てはいけないと思っている社長の顔が見てみたくてしょうがなかったのだ。
 これは好奇心などというものではなく、相手の顔がどれほどの狂気に満ちているかを確かめたかった。ただ恐怖だけで震えている自分がどうにもならないことを感じたからだった。
 沈黙が湿気を呼び込み、呼吸が荒くなってくると、その沈黙というのは、人の起こすどんな些細な音でも表すことができるようになるようだ。
 ただ、その音の本当の正体を知る者はいない。知っている者がいれば、その者はその空間を支配できるような大きな力の持ち主ということになる。普通の人間では到底できることではないだろう。
 ただ、この部屋の主である社長は、それをできると思っているのか、会社内で一番の権力を持ち、その社長のいわゆる本丸に乗り込んだようなもので、まるで今の美佐子は、
「まな板の上の鯉」
 と同じではないだろうか。
 この後、社長がどういう行動を取るのか、想像するに値しない。
――私はこのままどうなってしまうのだろう?
 と、すでに決まっていることを考えるのは、余裕がまったくなくなってしまったからではないだろうか。
 ワナワナと震える足を社長は見ながら、ズリズリとすり寄ってくる。その距離は本当にありが歩くほどの距離であるが、確実に近づいているのが分かる。その理由は次第にその吐息がハッキリと聞こえてくるからで、そのせいで、社長がどんどん興奮していっていることに気付いていなかった。
――少しでも左右のどちらかに動こうものなら、社長が飛びついてくる――
 と感じさせる状況で、身動きが取れないのはいいことなのかまったく分からなかった。
作品名:過去への挑戦 作家名:森本晃次