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過去への挑戦

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 それでも、好きな人を答えるのが誰もが恥じらいの中で答えるものだろう。そう思うとななみの返答は決して遅い方ではない。しかし、嫌いな人を答えるというのは、まるで嫌いな虫が身体に纏わりついてきた時のような、反射的に逃れようとするあの感覚と同じである。本能からの拒絶は、どんな反応よりも早いのは、周知のことだと言えるだろう。
 これでも分かるように、ななみは両親に対して、まったく正反対の感情を抱いている。これは逆にいうと、もし信じていた父親が自分の想像していたのとはまったく違った人であれば、父親を毛嫌いすると同時に、母親に対しての見方を変えることになるだろう。
 今まで生理的に受け付けなかった母親を、そう簡単に受け入れることができるのか、ななみには疑問だった。だがななみが、今までと違った感覚を持ち始めているかも知れないと誰も分からなかったが、その契機になったのが、初めて人を好きになった時だというのも皮肉なものだった。
 ななみは利一の純粋な心に触れれば触れるほど、今まで生きてきた人生のどこかが間違っていたかのように思えてならなかった。
 もちろん、思い違いだと自分に言い聞かせていたが、それだけでは言い表せない大きな違和感が、ななみを襲うのだった。
 ななみがそんな風に考えるようになったのは、彼ができたからだけではなかった。絵画に目覚めたのもその一つではないかと自分で思っている。
 彼女は絵画について誰かに習ったわけではない。利一との話の中で、
「絵画って、何が正解かなんてものはないんだよ。それは文芸などの他の芸術であっても言えることだと思うんだけど、売れる売れないというのも、どこかの著名な先生の評価がよければ、売れるというだけだろうね。二科展などであっても、誰かが評価するわけだから同じことではないかな?」
 と、彼は少し夢のない話をした、
 もし、これを画家を目指して一生懸命に努力している人が聞けば、激怒するかも知れない。それほどの言いぐさであった。
「私は趣味でやっているだけだから、あまり気にしないけどね」
 と、ななみがいうと、
「そうだよ。僕だってそうだ。これがもし本当に画家なんかになってしまうと、自分の書きたいものや、本当に見えていると思っているものを否定されれば、そこで終わってしまうからね、下手をして画家の重鎮の人に不評を買うと、それを取り戻すのは結構大変なんじゃないかって思うんだ」
 利一の話を聞いていると、せっかくの絵画を趣味としてやっている気持ちに釘を刺される気持ちになるのはどうしてだろうか。
 せっかくのデートも彼の話を聞いていると、楽しめない気がした。それから二人で絵画に行くことはほとんどなくなったので、一緒に写生したという記憶は、かなり薄れていたのだった。
 料理教室に通い出したのは、ななみの提案だった。絵画はお互いに一人で楽しもうと思うようになって、
「じゃあ、何か他に共通の楽しみはないのかな?」
 と考えた時、ふと目に入った料理教室の看板が気になった。
 本当は前から気付いていたのだが、まるでお嬢様修行の続きのような気がして、避けていたような気がする。
 一人で入会するのであれば、まさにお嬢様修行の一環になってしまうのだろうが、一緒に入会してくれる人がいて、その人は男性だと思うと、今まで避けようとしていた気持ちがウソのように、看板に引き付けられている自分を感じた。
「私、ここの料理教室に通おうかしら?」
 と、貰ってきたパンフレットを手に、急に思い立ったかのように利一に話した。
「ほう、どれどれ?」
 と利一もまんざらでもないようだ。
「僕は一人暮らしなんで、自炊とかもするんだよ。せっかく自炊しているんだから、料理を習って、自分で作ってみるというのもいいかも知れないな」
 と実に乗り気だった。
 ひょっとすると、利一の方が、ななみよりも乗り気になっていたのかも知れない。
 それでも、ななみは自分があたかも今考えたかのようにして利一を誘った。利一もそれを何の疑いもなく話を聞いている。
「ね、いいでしょう? 私も一緒に習って、二人で一緒に何かを作るって、本当に素晴らしいことだと思うの」
 と、ななみはうっとりしながら話した。
 自分の想像が妄想となって膨れ上がっていき、絵画の時とはまた違った感動を与えてくれたことが、ななみを有頂天にさせた。
「うん、いいことだ。ななみちゃん、なかなかうまい趣味を見つけてきてくれたね」
 と言って、利一は喜んでいた。
 少数精鋭の教室でもあるので、それも嬉しかった。見ていても嫌いな人や受け付けられないような人もいない。
「一人主婦の人がいるけど、あの人とから頼りになりそうだよね」
 と利一は言った。
 利一は、その主婦の人に、将来のななみを見ていたのだが、さすがにななみの方ではそこまで彼が考えているとは思ってもいなかった。
 実は利一は主婦である美佐子のことを以前から知っていた。
 美佐子は結婚する前、利一の会社の近くに勤めていて、いつも同じ電車になることで、時々挨拶をする仲ではあった。しかし、それ以上でもそれ以下の仲ではないことは確かで、ななみのまったく心配するほどのものではない。しかし、ななみが利一の彼女であるということが分かると、美佐子は利一に話しかけることはしなかった。自分も主婦だという自覚もあるし、既婚者としての余裕と風格を出すことで、利一をからかってみようというちょっと悪戯心もあったのだ。
 ただ、これはななみはまったく知らなかったことだが、美佐子は結婚する前、短い期間だけだったが、パートとしてななみの父の会社に勤めていたことがあった。短い期間でしかもパートということなので、ほとんど関係のないようなものだが、その時は利一もその偶然に気付いてはいなかった。
 美佐子がこの街に引っ越してきたのは、結婚してからのことだった。それまでは都会に一人暮らしをしていたが、郊外でゆっくり暮らしたいという旦那の意見もあって、美佐子がこのあたりの物件を探して、いいところがあったので、このあたりに住むことにした。
 元々美佐子も都会の生活には飽き飽きしていたので、田舎で暮らしたいと思っていたが、結婚相手に、
「通勤に時間がかかるけど、いい?」
 なんて聞けないと思い遠慮していたが、彼も乗り気だったのは嬉しかった。
 美佐子はこのあたりの土地には慣れていたようだ。
「私、昔このあたりに住んでいたことがあったのよ。子供の頃だったけどね」
「そうなんだ。それだったら懐かしいだろう?」
 と彼に言われて、美佐子は複雑な表情をしたのだが、その理由を旦那が知る由もなかった。
 懐かしさというのは、いい思い出だけなのか、それとも悪い思い出もあるのか、美佐子は姉と、そして父親を思い出していた。姉というのは自分とは母親が違っていて、よく暴力をふるう父親から逃げていた。美佐子はそんな母親を見ていて可哀そうだと思いながらも、父親から離れることはできなかった。
 かわいそうだったのは姉だったが、姉は父親から完全に虐待を受けていた。姉の母親はとっくに逃げ出していて、後添いが美佐子の母親だった。
作品名:過去への挑戦 作家名:森本晃次