過去への挑戦
別に気遣いをしないわけではない。気遣いをするのが嫌な人間と、気遣いを露骨に感じる人間というのは、一種の磁石で言えば、同じ極ではないだろうか。つまり、S極とS極では反発しあって、お互いに離れようとする。それを無理に近づけてしまうと、どちらか弱い方が弾き飛ばされてしまうのだ。
この場合どちらが弱いのかといえば、男性の方なのは一目瞭然だ。少なくとも一度結婚経験があり、さらにその後離婚を経験し、自由と自分を取り戻した人間に、結婚すらしていない男が敵うはずもない。
彼は先生に失恋したわけではない、自分の立場に気付いたのだ。なぜなら二人はまだ恋愛までも進んでいない。本当であれば進むべきタイミングを逸してしまった。それは男とすれば大人としての対応を意識し、女性の方では自由と自分が、もう恋愛を考えないようにするという戒律を自分に課していたからだ。
もちろん、こんなことが二人の間で起こっていたなど誰も知る由もない。先生の方にも意識はないだろう。男性側で勝手に妄想し、勝手に終わったことだった。だが、これは男性側にとって、失恋よりも成長する上で大切なことだったのかも知れないと思うのは、作者だけであろうか。
ななみの家族
一番若い二人は、実はこのスクールでは一番の最古参でもあった。このスクールは会員になってさえいれば、いつ参加しても構わないし、半永久的に会員でいられる、ただし年会費というものは必要で、それもそれほど高いものではないので、ほぼ、入会金以外にはあまりかかるものではなかった。
そういう意味で、若い二人は二年間くらい通い詰めていて、その間に何人もと知り合い、自分たちでは、
「たくさんの人脈を持った」
かのように思っていたようだ。
ただの友達なのだろうが、それでも人と関わることができるのが嬉しいようで、素直な二人はそれぞれ教室で可愛がられていた。マスコットのような存在だったのかも知れない。
二人は、もちろん、彼氏彼女として自分たちの間では自覚していて、
「教室ではお友達でいましょうね」
などという掟を自分たちだけで決めていたようだ。
そんなのまったく無駄だということを誰か教えてあげればいいものを……、と思いながらも微笑ましい二人を見ているだけでもほのぼのとしてくすぐったい気分になるのが見ていて楽しかった。
元々二人は知り合いでこの教室に一緒に入会したわけではない。お互いにまったく知らなかった相手なのだが、実は彼女の方は最初から意識していた。なぜなら、たまに朝のラッシュの時、彼を見かけていたからだった。
――相手は私のことなど知らないんだろうな――
と思いながらも、自分の好きなタイプだったこともあり、意識しないでもなかった。
彼の方はまったく意識していなかったので、知らないと言われても仕方のないことだと思ったが、彼女としては、
「これは運命だ」
と思ったとしても、無理もないことだった。
さすがにすぐに、
「電車で時々お見掛けしています」
などと言えるはずもなく、言葉を掛けられるチャンスを待っていた。
ここで一緒になるだけでも奇跡に近いのだと思っているので、必ず機会は近いうちに訪れると思っていた。
実際に訪れた機会を逃すことなく、それでも彼女にとってが一生に一度と思えるほどの度胸を出して、彼に話しかけた。
やはり彼は彼女のことをまったく意識していなかったようだ。
「ごめんごめん、でも、仕事が忙しくてね、毎朝の通勤の時、まわりなんて正直まったく見えていないんだ」
と言われ、自分の視線に彼が意識しなかったのは、自分が悪いわけではなく、しかも、彼に対して他の誰も意識されていないことが分かっただけでも嬉しかった。
「じゃあ、これを機会に、もっともっとお近づきになりたい」
というと、彼はテレた様子で、おどけるように、
「おお、仲良くしようぜ」
と言って、喜んでくれた。
それから二人の夢のような毎日が始まった。
彼女は名前を安藤ななみといい、まだ大学生だった。二人が知り合った時はまだ彼女は未成年で、十九歳だったようだ。
このスクールも、紹介してくれたのは、親戚のおばさんで、世話焼きで有名らしいことから、そのうちに自分にも見合い写真などを持ってきて、見合いを迫るつもりではないかと思っていた。
彼の方は、木村利一といい、近くの会社に勤めている商社マンだった。年齢は今、二十五歳ということだった。
二人とも美男美女のカップルで、二人のことが好きな人でもない限り、二人はお似合いのカップルに見えることだろう。二人が付き合っているのではないかというウワサが立ち始めた時でも、誰一人疑う者はいなかった。それだけ二人の美貌は自然にまわりを朗らかにさせる力があるのかも知れない。
二人は幼くも見えることで、悪気のないことであれば、少々の嫌味や皮肉であっても、誰も悪くは思わないだろう。そんな役得を持っている二人だったが、それがこの後の悲劇を生むことになるのだったが、それはこの後のお話である。
二人は自分たちの中の暗黙の了解で、結婚は意識していた。すでに婚約しているかのような錯覚さえあり、家族も皆反対する者などいないと思い込んでもいた。
ただ、まだななみの方が未成年で学生ということもあり、利一の方で、
「結婚はまだ先のことだね」
と気持ちはあるものの、焦ることはないとななみに言いながら、自分にも言い聞かせてきた。
でもななみとしてはせっかく、花嫁修業ということで料理教室にも通いだし、しかも、それで意中の人を射止めたのだから、本人としては焦っているつもりは何もない。それよりも相手の惰性が
「まだ先のこと」
という理由を彼女は読みかねていた。
果たしてその気持ちの裏に潜んでいるものが、
「こんな女で満足なんかできるものか、まだまだこれから遊びまくって、それから結婚ということにならないと、たった一度の人生、後で後悔はしたくないからな」
と言っているように思えてきたのだ。
そんなテレビドラマの悪党のようなセリフを彼が吐くとは思えないが、言葉の裏を見ようとすると、そうなってしまう。彼女の中で言葉の裏というのは、悪党が垂れる能書きと同じだという思いでいっぱいだったからである。
だが、彼にしてみれば、そんなことは別に関係ないことで、彼の気持ちは彼女のことばかり考えていた。
――この娘を幸せにするにはどうすればいいか?
ということを基準に考えている。
――せっかく大学にも進学し、花嫁修業までさせてもらっているのだから、彼女にも親孝行というものをしてもらいたい、それにはいきなり結婚というのではなく、もっと世間を知る機会を与えてあげたい。結婚してしまうと、世界が違って見えるらしいと聞いたことがあるからな――
と考えていた。
お互いに相手のことを思いやるがゆえのすれ違いなのだろうが、彼女が今まで男性を知ることもなく、いわゆる
「夢見る少女」
だったことが、すれ違いを生んだ。
といっても、これくらいのすれ違いなど、何もないのと同じだった。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」
と言われるが、まさにそれに酷似しているではないか。