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過去への挑戦

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 そうなると、他の男女はそれぞれに何かの目的を持っている。もし、目的がダブってしまっていて、好きになった人を取られたなどという思いを抱いたまま、教室を続けることにプライドが許すだろうか? かといってやめてしまうと、まるで敗者は去るしかないというのを絵に描いたようになってしまい、さらに自分が失恋によって逃げているように見られるのはもっとつらい。やめても地獄、残っても地獄の状態を分かっているからこそ、恋愛に結び付けば誰にも知られないようにしなければいけないという思いに至るのではないか。
 しかし、そんな人というのは得てして、自分が幸福の真っ只中にいれば、それをまわりに見せびらかしたくて仕方がないというのもあり得る発想だ。
 自分の中で勝手にジレンマを作ってしまうのは、他の人との間に自分で勝手に結界を作ってしまい、
「その結界を破るのは自分以外にはいない」
 と感じるからではないだろうか。
 だが、美佐子には、今この中で誰と誰がカップルなのか、想像はついている。
「他の人、誰にも分からないとしても私だけには分かる」
 という思いを抱いたが、それは曲がるなりにも結婚しているからだと思っている。
 結婚というのは、二つの間に存在する一つの壁のようなものだ。つまり結婚前はお互いに他人で、結婚すれば、他人には違いないが、家族になった。明らかな違いがあるのであった。
 権利も義務もお互いに共有する関係。それが結婚である。結婚して初めて分かるものもあれば、分かってしまって、こんなはずではなかったと思うことが現実になるのが、結婚という儀式であった。
 この中で、結婚というものに対してまったく別の意識を持っているのが、実は料理の先生であった。彼女は、
「形式的な意見に変わりはないが、結婚というものは、そんなに生易しいものではない」
 と感じている。
 彼女は離婚経験を持っていた。
 美佐子は結婚してから、それまでの独身事態と自由という意味でまったく違っていることを今経験しているが、先生はすでにそれは過去のことになっていた。
―ーああ、あの時、こうしていればよかった――
 などと感じることもある。
 しかし、そのすべてが後の祭りで、では一体何が一番悪かったのかと聞かれると、
「結婚してしまったことが悪かった」
 としか言いようがない。
 彼女としても、
「この人しかいない」
 と思って結婚したはずだった。
 結婚というものは、皆そう思うからするものであって、当然、後で後悔したくないというのは誰もが感じるはずのことであった。
 では、結婚しなければよかったのかというと、この問題は結婚してしまわないと分からないことなので、遅かれ早かれ結婚するのであれば、それがいつであっても、時期に問題はない。相手だって、自分で一番だと思って選んでいるのであれば、相手の問題でもないことになる。
 あくまでも結婚という事実に対しての離婚してしまった理由というのは、結婚しなければ分からないとしか言えない。様々な理由は結婚してから分かることだからだ。
 実に皮肉なことであり、笑い話にでもなりそうな本末転倒な理屈に、離婚してせいせいしたと思う自分は納得がいくが、寂しさが残ってしまった場合は、本末転倒をただ笑うだけでは済まされない気分になってしまうことだろう。
 だが、寂しさというのも一時の迷いのようなもの、離婚してしばらくすれば、最初から結婚していないような気になる。もちろん、戸籍が汚れてしまったという思いはあるが、自由が戻ってきたのであれば、それもいいと思えるくらいになっている。今の先生はその時期にいるのではないだろうか。だから教室はまるで見合い会場のようになってしまっても、それは問題ないと思っている。
 だが、そんな先生のことを好きになった男性もいた。この教室に以前入会した男性であったが、先生はまったく気づかずに彼は通うのを自分からやめてしまった。
「あれだけ熱心に通ってきていたのに」
 と先生も感じたようだったが、彼が見ていたのは先生だけだった。
 先生の眼鏡に適えば、ただそれだけでいいと思っていた。料理などどうでもよかった。とにかく先生のそばにいたい。先生の吐息を感じたい。先生の臭いを嗅ぎたい。一種変態的なところがあったが、気持ちは素直で純情だった。
 ある日、そんな彼が失敗して、先生がフォローした際、思い切り先生が彼に接近した。彼の中で自分と先生の距離の中で、それ以上近づいてはいけない結界のようなものを築いていたのだが、先生の方からその結界を破ったのだ。
 最初は喜んだ彼だったが、急に気持ちが一変した。彼の中で先生が二人に分裂したのだ。
 そして、自分が愛し、敬っている先生と、勝手に自分の了解に侵入し、結界を破ってしまった先生。彼の中でその二人の女性を作り出さなければ、その時の彼の心境をどう説明していいのか分からない状況に陥ってしまった。説明できなければ、それは結界を破ったのが自分ということになり、自分が地獄の責め苦を受けることになるという妄想を描いてしまっていた。
 それを阻止するには、先生を分裂させて、もう一人の架空の先生にその責任を押し付けることで、自分への責め苦を逃れようという自己防衛意識だった。
 だが、先生を分裂させたのはよかったが、実際に責めを負わせようと思った相手が本物の先生であることに気付いた彼は、もうどうすることもできない状況に陥り、そこで選択したのが、先生から離れることだった。
 自分が先生と一緒にいてしまっては、大好きな先生が責め苦を味わってしまうことになる。
 ただ、分裂させてしまったことで、大好きな先生はもう自分のものではないという思いも生まれ、それまで熱中していた感情が、次第に冷めてくるのを感じた。別に嫌いになったわけではない。むしろ嫌いになった方がどんなに楽か。そんな中途半端な気持ちで先生を見ることがどれほど辛いかということを彼は知った。ジレンマの正体を自分で覗き見たのである。
 どうしてそんな思いに至ったのか、彼は分からなかった。先生が前に誰かと結婚していたことは分かっていた。分かっていて、
「俺だったら、前の旦那みたいなことはないはずだ」
 と根拠のない自信もあった。
 根拠がないからこそ、今からその根拠を裏付けるだけの気持ちを抱くための理由付けをするのだと思っていた。普通の人と順序が違っているが、それを彼は独自の恋愛感情だと解釈した。
 彼は確かに他の人では考えられないような発想を持っていた。だからこそ、他の人よりも発想を現実にできるだけの能力を有していたのかも知れない。
 しかし、そんな彼だからこそ、自分の中にできたジレンマを解決できないでいた。
――ジレンマなど、自分にはない――
 とさえ思っていたに違いない。
 彼の間違いは、自分のようなタイプの人間が、先生のように自由を取り戻し、それによって自分の生き方に目覚めた人を相手にすると、お互いが見えないところで反発しあって、相手の気を遣っているつもりでも、まったく気遣いがなされないことをである。
作品名:過去への挑戦 作家名:森本晃次