短編集87(過去作品)
何事もなく平凡に過ごしてきた恵子を見ていると、自分の中にある穏やかな気分が癒される。それが嬉しかったのだ。
最初は恵子から話しかけてきた。きっかけなんてどこにでも転がっているもので、何だったか忘れてしまっていた。
一つのことがうまくいくと、後もうまくいくということは往々にしてあるというものだ。連鎖反応というのだろうか、家庭がうまく行くようになれば、目標にも手が届いたりするものである。目標に手が届くのは本人の努力によるものだが、まわりの環境が与える影響も無視できない。悟にとってのバイオリズムが一つにまとまっている時だったのだろう。
父親に反発心を抱いていた悟は、
「おだてられて出す実力なんて本当の実力じゃなんだ。それは自己満足したいがために、自分を納得させる言い訳に過ぎないんだぞ」
という言葉に言い知れぬ反発心を持っていた。
――おだてられてでも実力が出せればそれでいいじゃないか――
と自分に言い聞かせていた。
きっかけというのは何であっても、すべてその人の身につくものである。それのどこが悪いというのだ。要するに父親の考えは旧態依然のものなのだ。そんなものにしがみついている父親を見ているから、憎らしく感じられるに違いない。
恵子の一言一言は、悟の「きっかけ」となった。自分に自信をもつことができるのも恵子といるからである。他の人からは、
「あの娘は苦労を知らないから、言葉が軽いのよ。下手をすれば人の感情を逆撫でするわね」
と言わしめたが、悟にとっては、罪のない言葉は気持ちにゆとりを与える効果抜群なのだ。
――人のことを信頼するってこういうことなんだ――
信頼は全面的なものでないと、信頼とは言えないと思っている。口先だけでも信頼してしまうが、本当の信頼を感じたことは一度もなかった。ただ、人を疑うことができないだけである。
人を疑うということは、相手も自分を疑っているということである。
「人に信頼されたければ、まず相手を信頼することだよ」
祖母の話だった。
恵子はおばあちゃん子で、小さい頃にいつも聞かされていた話が好きだった。
おとぎ話もおばあちゃんから聞かされた。話を聞いているだけでわくわくし、最後まで聞き終わって後悔したことも何度かあった。それは怖い話が多かったからで、怖い話を途中でやめるのも怖いもの、結局最後まで聞いてしまったが、それが自分の感じていたよりも怖い話であれば、後悔も致し方ないことだ。
聞かされたおとぎ話は、学校で先生から習う人間関係についての話にくらべれば、怖いのだが、ためになる。摂理や人間の心理が微妙に絡み合って話ができているのだが、大人になって思い出すと、噛めば噛むほど味が出るするめのような話だった。
恵子が他人を見るのは、おとぎ話というのは架空の話で、悪い人なんていないという考えが元になっている。
――まるで鏡を見ているようだ――
反面教師という言葉は、その頃には知らなかっただろう。学校で習う言葉ではない、たまに出てくる言葉で、どうやら悪いことではないようだ。
人によっては悪い意味に聞こえてくる。教師にさせられる人は、溜まったものではない。ついついその人をそんな目で見ているのに気付いて、ハッとすることがあるくらいだ。
――相手は気付いているのだろうか?
相手との距離を感じる。思わず目を逸らしてしまうこともあり、関係がギクシャクしてくるだろう。人との距離を離したくないと思うことで、
――人を疑ってはいけない――
と無意識に感じるが、それが却ってまわりから浮いてしまうことになるなど、考えてもみなかった。
距離を感じると、自分は一人孤立していた。自分から近づけば相手に距離を置かれることを分かっているのに、近づこうとする。悪循環であった。
相乗効果という言葉がある。恵子にとって悟はそんな存在だった。
恵子もおだてに弱いところがあった。悟ほどしっかりした考えを持っているわけではないが、おだてによって開花するというのも、元々才能があったからに違いない。
恵子は絵を描くのが得意だった。イラストのようなものだが、最初は落書きだった。
小学生の頃から、授業中によくノートの端に落書きをしていた。小学生の女の子なら誰でも経験があるだろうが、その中でも群を抜いていたようだ。担任の先生が何も言わなかったのは、その才能を摘み取りたくなかったからだろう。
「青山さんって、本当にイラストが上手なんだね」
イラストと言われてドキッとしてしまった恵子は、落書きとしか自分で感じていなかった。乙女心から、手紙を出したりする時に、ちょっとした落書きのつもりだったのだ。少し古風なところがある恵子は手紙を出したのは、相手から帰ってくるのを心待ちにしている自分が可愛いと思ったからだろう。そんな手紙に落書きをするのだから、まだまだ考え方は子供だったに違いない。
そんな恵子を悟も暖かい目で見ていた。まわりの女の子が精神的に成長していく中で、あどけなさと純粋さを失わない恵子は希少価値である。
――見つめていればいるほどいとおしくなってくる――
そういう女の子は結構早い時期に飽きてしまうものだろうが、恵子に関してはこのままの感情が変わることがないように思える。それは相乗効果という意味で、悟にも恵子の言葉の一言一言が他の人と違って聞こえる。励みになるのだろう。
恵子のイラストの才能だけは、彼女とあまり話したくないと思っている人も一目置いていた。だが、それを恵子自身が知ったのは、悟にイラストと言われてからだった。
落書きとイラストであれば、恵子の中では天と地ほどの差がある。落書きというと、どうしても悪戯の域を出ない。しかしイラストというと、恵子にとっては芸術なのだ。
――私に芸術なんて――
自分は他の人とはどこかが違うといつも感じていた恵子だったが、それがどこから来るものかずっと分からないでいた。
――それが芸術だったなんて――
恵子の目からウロコが落ちた気がした。
芸術という言葉には、特別な思いがあった。お嬢様的なところのある恵子は、親の教育もあって、習い事はいくつかさせられた。お茶やお花など、小学生の頃に少しかじらされたものだった。
だが、どうも自分に合っていないような気がして、そのどれもが気持ち的にも実力的にも中途半端だった。
――芸術ってこんなものなのかしら――
と、芸術というものに半信半疑で、果たして自分がどこまで芸術に親しむことができるか分からないでいた。しかし、それが落書きという形で人から一目置かれるなど、想像もしていなかったのだ。
それも尊敬している悟から言われると、その気になるのも無理のないこと。まわりを見る目まで変ってくる。それは、まわりが自分を見る目の違いに気付いたというのもあるだろう。それだけ今までまわりにあまり気を遣っていなかったという証拠でもある。
「彼女、最近少し変わったわね」
まわりの女性の印象である。もちろん、それは悪い印象ではなくいい印象で、それも芸術がもたらしたものであることが恵子には嬉しかった。
変わったという印象は女性から見ると、その原因は一目瞭然だ。
「彼女、誰か好きな人ができたのよ、きっと」
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次