短編集87(過去作品)
サッカーを通して初めて感じる社会のルール、理不尽さを乗り越えることができたのは、サッカーと出会ったからだろう。しかし彼はおだてに弱い性格でもあった。それは小さい頃から自覚しているもので、その性格は嫌いではない。
――おだてに乗ると自分の実力は二倍にも三倍にもなるんだ。だから、おだてに乗ることは決して悪いことではない――
と考えていた。もっともこの考えに至ったのは、
「おだてられて出す実力なんて本当の実力じゃなんだ。それは自己満足したいがために、自分を納得させる言い訳に過ぎないんだぞ」
と言っていたのが他ならぬ父親だったからだ。
父の荒れている姿を見て、今まで尊敬し、生き方の見本のように思えていたのが、ウソのように反発心が芽生えた。芽生えた反発心は無意識に悟自身に宿っていく。ちょうど成長過程で、人格が形成されている揺れ動く心境の中で、その気持ちは大きな過渡にあったに違いない。
――父のいうことの反対を考えればいいんだ――
と思うのも当たり前の事で、反抗期というには少し違うのかも知れないが、悟るにとっては無理のないことだっただろう。
その時母親はというと、悟との性格の違いは歴然で、誰かに縋っていないと立ち直れないほどまで精神的に追い詰められていた。そんなことを悟は知らなかったが、それが母親には幸いだったのかも知れない。
父親の会社が傾きかけてきた頃、ちょうど母親は近くのスーパーにパートに出ていた。共稼ぎなど当然と言われる時代だったので、主婦のパートはかなりいたようだ。
だが、女の世界というのは思ったよりも厳しいものらしく、家庭の中では三行半、つまり波風を立てないようにということだけを心がけていた母には、お世辞にもうまくいく人間関係のある職場環境ではなかったようだ。
いろいろな考えや女同士の派閥が渦巻く、ドロドロしたものがそこにはあった。
今までずっと専業主婦をしていた母親に、そんな環境を理解できるわけもない。それどころか、中にいても渦巻いているものに気付かないでいたのだ。
そんな時に現われたのが、店長の中野だった。彼は母親に近づき、甘い言葉をかける。最初から口説くつもりだったかどうかまでは分からないが、優しい言葉に飢えていた母親にとって、甘い言葉は毒である。感覚を麻痺させ、気持ちを覚醒させるに十分であった。
最初は食事を楽しみ程度なので、あまり問題はなかったが、食事をしながらであれば、しばし家庭や人間関係を忘れられる環境が次第に自然と身体に馴染んでいった。
母親が男に身を委ねるようになったのは、自然なことだ。それだけに怖い面もある。
――好きになってはいけないんだわ――
と思っていたはずの母親だが、いつの間にか一緒にいて、それが自然になってしまった。一緒にいないと辛くなる。一緒にいることで、壊れそうな自分をコントロールできているのだ。
禁断の恋がこれほど苦しいものであるとは、まったく思っていなかった。元々不倫という言葉は自分にはまったく関係のない世界だと思っていて、不倫する人を心の底で軽蔑もしていただろう。
――どうしてこんな気持ちになっちゃったのかしら――
母親は純粋すぎるのだ。純粋すぎるので、相手が遊びならばまだしも、相手の男も同じような感覚だったからたまらない。
――相手の愚痴を聞いてあげることで、自分の中にあるモヤモヤした感覚を客観的に認識できる――
これが男の考えだった。
ある意味したたかである。相手のことよりも、まずは自分のことを考える。悪いことではないが、お互い様という気持ちに違いなかった。
しかし、母親はそんな気持ちは一切感じなかった。
――自分の話を真剣に聞いてくれる優しい人――
それがいつしか恋になる。そんなシュミレーションを男の方では抱いていなかった。
いや、抱いていたかも知れないが、あまりにも漠然としていて、
――好きになってくれれば嬉しい――
というくらいにしか考えていなかったはずだ。
最初は自分の立場だけで見ていたので、すれ違いもあっただろうが、一瞬でも交わってしまえば、その後に離れたとしても残像がずっと残ってしまう。錯覚かも知れないが、ずっと同じ考えでいると思えてならない。
お互いに思いやっているつもりが遠慮がちになり、考えていることの半分も打ち明けられず、そのまま気にはなっているが、快楽に打ち消されていることに気付かないでいたことだろう。
不倫をしている二人が、一番不倫という言葉を嫌っている。それはお互いに本気になりかかっていたからではないだろうか。母親にしても相手の男にしても気持ち的には盛り上がって、お互いの気持ちを知ろうという気持ちの元、相手の身体を貪った。
――身体の関係になる前は、気持ちだけの世界。でも身体を重ねてからは、身体を求めることに気持ちがついてくる――
とお互いに思うようになっていた。気持ちを確かめるために身体を求めると言っても過言ではないだろう。
男は母親よりも冷静だった。身体を求めながら、そこまで考えていたからだ。しかし、母親の方は身体を重ねてからは、ついてくるはずの気持ちを見失いがちになっていることに気付かない。
男の方は、見失いかけていることに気付くことで、冷静になれたと思っている。母親にも気付いてほしいと思っているが、なかなかそれを口にすることができない。それが彼の短所の一つなのだろう。
そのうちに母親は冷静な彼に気付き始めた。イライラが募ってくるのを感じたが、それを男はまた冷静に見ている。
――最初に交わった気持ちのまま、その残像を追いかけているからだ――
というところまで分かったが、ここまで来ると、どうにもならない。男は迷ってしまった。
――このまま、一緒にいることはできない――
迷った挙句の結論は、母親の前から姿を消すしかなかった。距離を置くだけではどうにもならないことに気付いたからであって、最初に出会った頃、愚痴はこぼしていたが、そんな中で見せる冷静さを、男は信じるしかなかった。
母親が家庭に戻ることの難しさよりも、このまま続けることの方が、あまりにもリスクが大きい。男はそのことに気付いたのだ。
――スーパーの店長と、パートの主婦の不倫――
普通の主婦が一番陥りやすそうで、転落の一途という言葉が頭を掠めそうな状態だが、どっぷり浸かっていた時期があったかということを忘れられる時期は、意外と早く訪れるのだった。
――思い出にできるだけ、冷静になれたんだ――
母親は感じた。気がつけば環境は不倫を始める前と何も変わっていないが、過ぎていった時間がもったいないとまでは思わない。だからこそ思い出にできるのだろう。
以前のような平和な家庭に戻るまで、それほど時間が掛からなかった。母親が戻ってくる頃には、父親も穏やかになっていた。何事もなかったような家庭に戻ったのだが、悟にとって穏やかでなかった時期はまるで幻のように思えた。
――穏やかでなかった時間なんてなかったんだ――
と言われれば、そんな気がするくらい気持ちは大らかだった。
悟が恵子と出会ったのは、そんな頃だった。性格的にあまり細かいことを気にしないという点で二人は似ていた。
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次