短編集87(過去作品)
女性の勘は鋭いものだ。相手が誰か分からずとも、好きな人ができたということは感覚で分かるもののようだ。
悟は恵子のあどけなさとお嬢様っぽいところが好きだった。恋愛感情とまではなかなか行かなかったが、
――一緒にいるだけで癒されるような気がする――
と思っていたのは事実で、それが恋愛感情に結びつくなど、考えてもみなかった。
ある意味、悟も男女関係には疎いところがあった。純粋なのだろう。そんな二人がお互いに遠慮しながら思いやっているのは、実にいじらしいものだ。だから、他の人から見れば、二人が恋愛感情を抱くようになっていたなど、分からなかったことだろう。
急速に接近するわけでもない。時々一緒に帰ったりして、その時にお互いのことを少しずつ話し始めた。もちろん、二人とも今まで誰にも話したことのない自分のことである。というのも、お互いに話していて、その時初めて気付く自分の気持ちというのも多々あった。だから時間を感じさせることがなく、会話を楽しんでいたに違いない。
お互いに交換日記のようなものをつけていた。今ならメールなどがいいのだろうが、実は交換日記がいいと言い出したのは悟だった。恵子の字が綺麗なのが最大の理由だが、いつしかイラストに魅入られるようになったのも事実である。
嫌だ嫌だと思いながらしていた習い事だったが、それがあったから、今の自分があるような気がする。イラストも立派な芸術だと言ってくれた悟の顔が今でも思い出すことができる。かれを本当に好きになったのはその時だったのではないだろうか。
人を好きになる瞬間は、それ以前に前兆のようなものを感じるもののようだ。悟を気にし始めてから徐々に感じる気持ちのゆとり、ほんのりと感じる心地よさに酔っている瞬間は、まるで縁側で日向ぼっこをしている感覚に近いものがあるだろう。
気持ちの変化に感じる前兆は、それまでロクなものではなかった。表にはあまり出していなかったが、少し躁鬱の気があった。小さい頃にあったそんな気持ちは大きくなるにつれて、忘れていくようである。あまり深く考えないというのが本能によるものだとすれば、小さい頃に躁鬱を乗り越える術を見につけていたのかも知れない。そうであるとすれば、まわりが思っているより「お嬢さん」ではないだろう。
「君は深く考えすぎるところがあるようだね」
悟に言われた。
「どうしてそう感じるの?」
と聞き返すと、
「まるで自分を見ているように感じるからさ」
――僕は君のことなら何だって分かるんだ――
と言わんばかりの表情には、かすかに笑みさえ浮かんでいた。
何となくだが、憎たらしさを感じた。だが、それすら見透かされているような表情がさらに癪に触る。どんな表情をしても、まるで子供と大人。そんな雰囲気を感じずにいられない。
「自分を見ているようだって、あなたのように落ち着いた気持ちにはなりきれないわ」
子供が親に反発しているのとは違う気持ちがよぎる。反発してみたい年頃に戻ったかのような気持ちである。
「交換日記を見ていると、まるで自分の書いた文章を読んでいるようなんだよ。言いたいことが分かるんだけど、訴えている気持ちだけしか感じない時があって、寂しくなることもあるね」
「松下さんも、誰かに訴えたくなることがあるの?」
「ああ、そりゃ誰だってそうだろう。でも、甘えてはいけないという思いがあるのも事実。不思議なものだね、相手が甘えてきていると思うと、自分がしっかりしなければいけないと思う。そんな人ばかりに出会うものかも知れない」
「でも、それで強くなれたんでしょう?」
「強くなれたかどうか分からないけど、甘えている暇はなくなったね。それがいいことなのかどう分からないけどね」
「いいことなんですよ。でも、松下さんが甘えたい時にそばにいるのは私であってほしいです」
思わず口から出てきてしまった。声が上ずっていて、顔が真っ赤だ。まるで告白したかのような気持ちになってしまったのだが、まるで自分ではないような気持ちになっていた。
「僕もそう思うよ。こうやって交換日記をつけていると、古い考えだけど、絵を見ていて気持ちが伝わってくるような気がしてくるんだよ。それが嬉しいね」
そういって、イラストを指差している。
「描いていて感情があまり入っていないように思えるのよ。あまり見られると恥ずかしくなってくるわ」
芸術というと、感情が表れるものだと思っていた。それが個性となって現われ、他の人にないものを作り出すことができるのだ。だが、イラストを描いていて、まわりが見えてこない。入れ込んで描いているわけではないが、それを彼に言うと、
「それは君がまわりに溶け込んでいるからだよ。あまりにも自然だと却って目に付きにくいだろう? そう、まるで石ころのような感じなんだよ」
石ころになったような気持ちになったことがあった。
「君はいつも能天気で、何も考えていないように見える時があるよ」
と言われたことがあった。間違いではないという自覚はあるが、さすがにショックだった。普段から一言多い人から言われたので、それほど気にする必要などないのだろうが、さすがに何も考えていないといわれるのは、理不尽である。
「ごめんね、それだけその場に馴染んでしまっているからかな? 風景の一つのように思えるのかも知れないね」
とも言われた
思ったことがすぐに口から出てくるのも悟の性格の中で悪いところなのだろう。だが、恵子はそこも彼の長所だと思っている。考えているだけで言葉にしない方が、却って嫌なこともある。それだけ、二人は接近しているのだろう。
――長所と短所は紙一重――
という話を聞いたことがある。あれは、小学生の頃の担任の先生から聞かされた話だったように思う。恵子は小学生の頃、担任の先生に憧れていた。まだ当然異性というのを意識する前だったが。無意識であっても、最初に異性を意識した人があったとすれば、その先生だったかも知れない。
「先生は皆の悪いところもいいところも両方知りたいと思っているんだよ。悪いところはある程度治さないといけないと思うんだけど、それよりもいいところを伸ばしてあげたいと思う方が強いかも知れないね」
教壇の上の先生の表情はいつも穏やかだった。その時も、クラスの一人が友達のものを盗んで、それについての説教をしている時だったのだが、どうも説教をしている雰囲気とはかけ離れていた。クラス全体に言い聞かせるという語り口調は、穏やかな中に却って重みを感じさせる。
みんなの表情は厳粛というよりも真剣な表情と言った方がいいくらいで、厳粛と真剣な表情のどこが違うのかと言われると、
――厳粛なだけの表情だと、その場限りの雰囲気がある――
と答えるだろう。厳粛でいたとしても、心の中では、
――早く説教を終わってほしい――
と思い、やり過ごすという気持ちが強いように思えてしまう。しかし真剣な表情はきっと心の中にすべてではなくとも、何か残るだけのものを含んでいるように思えるのだ。それだけに、先生の話に重みを感じ、話している時、相手の目を見る目が真剣なのだ。目を離す離さないという点でも、厳粛な表情とは気持ちと表情とのギャップが感じられる。
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次