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短編集87(過去作品)

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信じられない



                信じられない


 青山恵子は最近、まわりの人が信じられなくなっていた。学生時代から友達も多く、人から頼られると喜びを感じていたのが、まるで昨日のことのようだ。頼られると喜ぶという性格が自分でも好きだからこそ、人も頼ってくる。それがプレッシャーになることもなく、生き甲斐でいられたことが、今となっては懐かしい。
 かといって、それほど悲観した気持ちでいるわけではない。頼って来られて喜ぶことにふと疑問を感じたのだ。
――ひょっとして大きな勘違いをしているんじゃないだろうか――
 どういう勘違いなのか、すぐに分かるものではない。
 相手をすぐにでも信じてしまう恵子は、信じやすいがために、一歩間違えれば騙されやすいという脆い一面もある。まるで両刃の剣のような性格だったのだ。それに気付いてゾッとしたのは、ここ最近のことである。
「恵子って、人はいいんだけどね」
 人の噂をあまり気にすることもなく大らかに育った恵子は、いわゆる「お嬢様育ち」だった。家庭が裕福だというわけではなく、性格的にお嬢様的なところがあるのだ。世間を知らないといえばそれまでだが、
「あんた、それじゃ友達できないよ」
 と注意されても、
「あら、そうなの? 私のどこがいけないの?」
 と言い返す。知らない人が見れば居直っているように思うだろうが、彼女からすれば、本心から言っている言葉である。少し抜けているところがあると思われていたのは小学生低学年の頃からで、子供の世界だからあまり目立たなかっただけである。子供の世界ほど罪のない冷たい世界はないのだから。
 素直なところは誰もが認めるところなのだが、誰からも好かれる性格というわけではない。人によっては素直さが皮肉に思える人もいるようで、わざとらしさが鼻につくのだろう。
 恵子にとっての子供時代は、何も知らずに育った貴重な時間だった。だが、何も知らないことが大人になるにつれて、どれほど自分にとってよくないことだったかを痛感している。大人の世界を垣間見ることを汚いことのように感じるようになったのも、二十歳近くになってからのことだった。
 男性に興味を抱くまわりの女友達の気持ちが分からない。中学時代はアイドルに入れ込んでいたまわりを冷めた目で見ていたために、知らず知らずにまわりに染まることを許さない自分を作っていた。特に集団意識を嫌っていたのは、まわりに染まりたくないという気持ちが前面に現われていたからだ。
 高校になると気になる男の子がいた。彼はスポーツマンで、サッカー部のキャプテンをしていた。よくある初恋と同じなのだが、よくあることだという意識は恵子にはない。
――どうしたのかしら、この気持ち。私は何を考えているのだろう――
 彼のことを考えれば胸が痛い。かといって考えなければ何も手につかない。どうしていいのか分からないのは、彼を好きだという意識もなかった。
 彼に対しての印象は、
――近くて遠い人――
 というイメージだった。同じクラスで手を伸ばせば届きそうなのに、今まで相手の気持ちなどあまり考えたことのない恵子にとってみれば、その時の気持ちは、
――彼に自分を見てもらいたい――
 と思うことだった。
 今までは、まわりのことを気にしなくとも困ることなどなかったので、
――まわりが動いてくれる――
 と思っていた。ここまで思い上がっているとは思わなかったことを彼を気にすることで気付かされたのだ。
 引っ込み思案でない恵子は彼に近づいてみた。普通に話をしている時はいいのだが、話が終わって一人になった時に感じる気持ち、切ないような胸がむず痒いような気持ち、それまで感じた気持ちとはまったく違っていた。
 かといってずっと一緒にいたいという気持ちではない。まわりの友達が話すような、
「彼と一緒にいるだけで、それだけでいいの」
 という気持ちが分からない。たまに一緒にいるからいいということもあるだろう。しかし恵子が感じている気持ちは違った。
――やっぱり心のどこかで遠い存在だと思っているからなのかな――
 という気持ちが一番強い。
 自分にないところを持っている人に惹かれるという気持ち、これは恵子にもよく分かる。遠い存在だから相手が大きく見え、近づきたいと思う。その思いは本能といってもいいだろう。
 世間知らずなくせにどこか計算高いところがあると自覚しているが、先読みをしてしまうくせがあるからだ。だが、冷めているところがあると思っているのが自分だけで、他の人から見ればあくまでもお嬢さん。それこそまわりから、
――近くて遠い人――
 と思われているだろう。だが、それは恵子が彼に対して抱いたものとはまったく違うものである。
 彼、名前を松下悟という。スポーツマンで誰からも好青年と呼ばれ、好かれているように思われる彼には誰にも言えない秘密があった。
 もっとも、彼が悪いのではない。いい悪いの問題ではないのかも知れないが、少なくともあまり人を信用するタイプの人間ではなかった。
 その原因は家庭環境にある。
 彼が小学生の頃までは普通の家庭だった。建築会社で技師をしている父親は、持ち前の才能もあってか、職人としての地位を着実に守っていた。しかし、なかなか順風満帆には行かないもので、会社が少し傾きかけた時期に、会社で風当たりが急に強くなった。
 うまく行っている時の技師はもてはやされ、職人肌としての実力をいかんなく発揮できるのだが、風向きが変わってくると、矢面に立たされるのは職人である。
 今までに受けたことのないような屈辱的な注文を受け、プライドを傷つけられることもあっただろう。相手が客なら無下に怒ることもできず、自分の中にあるプライドとのジレンマに押し潰されそうになったこともあっただろう。
 その頃から父親は家庭で荒れ始めた。溜まったストレスを発散させるのは家庭しかなかったからだ。しかし、仕事での悩みや苦しみなど、家にいる女房や子供に分かるはずがない。分かるはずがないから憤りの矛先が家庭に向けられるのだろうが、向けられた方は溜まったものではない。
 母親は、逃げ出したい気持ちが喉元まで出ていたことだろう。しかし、元々三行半だった母親に逆らうという文字は存在しなかった。幸いなことに子供にあたることはしなかったので、悟の怒りは父親にだけ向けられた。母親に対しては、
――かわいそうだ――
 という気持ちが強かったが、
――黙っていることなどないのに――
 とも感じたが、もしここで母親まで荒れると、それこそ収拾がつかなくなるだろう。中学に上がって間もない悟に、想像できるはずもなかった。ちょうど成長過程、人一倍、成長の著しい悟は、自分で自分の成長をコントロールできない。
 スポーツとの出会いは彼にとって実に幸いだった。面白半分で中学入学と同時にサッカー部に仮入部したが、まわりのおだてに乗って、みるみる才能が開花していった。これこそ相性のよさを身に沁みて感じた最初の瞬間だったのだ。
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次