短編集87(過去作品)
思わず心の中で苦笑いをしてしまう。おじさんの話に出てくる妖怪について考えていると、まったく光を発しない星の話を思い出したのだ。
その本を読んでいた時、ちょうど聞こえていたのがモーツァルトの「魔笛」ではなかったか。そう考えれば「魔笛」をイメージしても無理のないことだが、ハッキリとは断言できない。それほど記憶が曖昧なものであった。
その本を読んだ時の記憶がハッキリしない。いつ頃だったのか、どこでだったのかすらほとんど記憶にないのだ。それほど前だったようには思えないのだが、もし聞こえていたのが「魔笛」だったとすれば、場所的には大体限定できるような気がする。
俊太郎は、なじみの喫茶店を持っている。大学時代によく通った喫茶店は、いつもクラシックが流れていた。ソファーが柔らかく、座っているだけで睡魔に襲われそうで、気がつけば、うたた寝していることも何度かあった。
――すぐに眠くなるくせに本を読むのが好きだったな――
今から思うとおかしなものだ。
本を読むとすぐに眠くなってしまうのは、昔からだった。それも人との話で、
「本を読むと眠くなるんだよ」
と言われて、さらにその思いが強くなると、それからは暗示に掛かったみたいに、あっという間に眠くなってしまう。よほど好きな本は、一気に読んでしまうからだろうが、それほど睡魔に襲われることはない。
電車の揺れでも睡魔が襲ってくるようだ。数十分程度ならいいのだが、一時間以上乗っていると、三十分を過ぎたあたりから眠くて仕方がなくなってしまう。高校時代は結構通学に時間が掛かっていて、電車に乗っている時間は一時間以上だった。学校が終わっての帰りなど、眠くて寝てしまったことが何度あるだろう。
それでも乗り過ごさなかったのは我ながらすごかった。いつも降りる駅の二つ前には目が覚めていて、自分が神経質な性格であることを証明しているようだった。朝起きる時も目覚まし時計に頼ることがあまりないので、
――起きなければいけない――
と思った時は、確実に意識が戻ってくるようだ。
目が覚める瞬間、忘れていく夢を感じることがある。
――忘れたくないな――
と思っている夢が多く、それでも忘れていくことをどうすることもできない。忘れたくないという夢のどこに共通性があるのか分からないが、その時の精神状態をくすぐるような夢であることに間違いはない。
喫茶店で読んだ星の本は、好きなジャンルの本だったので、一気に読んでしまったような気がする。絵や写真が多かったのもあるが、興味深い内容に、SF的なストーリー展開に引き込まれていった。小気味よい展開が睡魔を吹き飛ばしたといっても過言ではない。
そこで流れていたであろう「魔笛」は、音が篭って聞こえたように思えた。高音よりも重低音が響き渡っていたようで、それが睡魔を跳ね除ける要因がったのかも知れない。
「魔笛」を聞きながら、本を読みながら、おじさんが話していた妖怪の話を思い出していたように思う。今おじさんの話を思い出して、「魔笛」を聞きながら本の話を思い出しているのも、面白いものだ。
クラシックを聴いていると、気持ちに余裕が出てくる。それが「魔笛」であっても同じで、本を読んでいる時に、イメージとしていろいろなことが頭に浮かんでくるのだ。
どちらかというと、俊太郎は短気な方である。小さい頃から目立たない性格だったことが災いしているのか、短気だから知らず知らずに自粛しているのか分からないが、どちらも作用しているように思える。
短気は損気と言われることもあり、男として余裕を持たなければいけないと常々考えている。そんな時に気持ちを和ませてくれるのが、おいしいコーヒーとクラシックの奏でるメロディである。
コーヒーに含まれているカフェインは興奮効果があるというが、決してそれだけとは思えない。ゆっくり座って飲んでいると、不思議と気持ちが和んでくる。クラシックが掛かっていない時でも同じである。
確かに眠れない時などに飲むコーヒーは眠気を覚ましてくれる。だが、気持ちにゆとりを与えてくれる優れものでもあるのだ。
ミルクの苦手な俊太郎は、いつもブラックで飲む。琥珀色に光が反射して、じっと見ていると、カップの口が大きくなっていくような錯覚に陥る。
俊太郎はカップにもこだわるタイプで、下が縮まっていくいわゆるティーカップのようなものより、円筒形のカップの方がお気に入りで、さらには、丸いものよりも、六角形、八角形くらいの方が好きだった。
馴染みの喫茶店で、六角形のコーヒーカップが出てきたことで、自分の好みについて改めて気付いたのだ。
同じく馴染みの客で、俊太郎と同じ好みの客がいる。同じようにミルクが苦手だが、ブラックではない。その人は女性で、六角形のコーヒーカップを見た時、
「やっぱり、このカップが一番いいわ」
と話していた。
「そうですよね。私も同じことを感じています」
と思わず横から話しかけたくらいで、俊太郎の反応に、嫌がりもせず彼女も、
「そうでしょう、同じ気持ちの人に出会えて嬉しいわ」
話のきっかけが何であったかということは、後々に大切なことである。同じ趣味がきっかけだったというのは、彼女も俊太郎も願ったり叶ったりではなかったか。
名前を淑恵というが、名前を教えてもらえるまでにだいぶ掛かったように思う。しょっちゅう喫茶店に出かけていたわけではないし、いつも会えるとは限らないので、結構掛かったような気がしたのだろう。
最初人見知りをする女性のように感じた。一人カウンターの奥でコーヒーを飲んでいる。俊太郎自身も一人が好きな方だが、一人でいる女性が気になる普通の男でもあった。どちらかというと他の男性よりも、一人でいる女性へのまなざしが強いかも知れない。相手になるべく悟られないようにしようと思えば思うほど、まなざしが露骨になっている。
「熱い視線を感じたわ」
後になって淑恵に言われた。
「ウソがつけない性格だからね」
まんざらウソではない。
「そうなの? 信じていいの?」
探るような言い方だが、これは淑恵のくせであって、こんな言い方をするのは、心を開いた相手でないとしないだろう。
付き合いが長くなればなるほど、神秘的な部分が見え隠れしている。時々、ロマンチックな話の中に、ドキッとするような会話があるが、それは星に思いを馳せていた少年時代を思い出させるようなものだった。
「僕はずっと目立たない方だったから、たまに目立ちたいと思うことがあっても、それは夢の中だけに留めているんですよ」
「私もそうですわね。人とこんなに話をすることなんて今までになかったですよ。相手が男性であっても女性であっても同じです」
俊太郎が星や空の話が好きだと言った時、
「私は星もいいんだけど、月に興味があるわね。昔話で言えば、竹取物語なんてその最たるものかも知れないわ」
月に対しては今まで考えたことはなかった。星を中心に座標を組むように天体を見ていたので、あまりに大きすぎる月は大きさ以上の感情が湧いてこなかった。点在している星と、大きく存在している月とでは元来違うものだという認識でいたからかも知れない。
「月って、確かにロマンチックですね」
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次