短編集87(過去作品)
母親が家を留守がちにするようになってからかも知れない。もちろん不倫をしているなどということは知らなかったが、何となく雰囲気がおかしいのは分かっていた。普段からあまり気持ちを顔に出すことが嫌いな性格の悟にとって、少しでも違ったことがあれば、自分の表情を確認してみたくなるのも当然かも知れない。
――それまでは、精神的に気になるようなことはあまりなかったんだな――
今さらながらに感じている。
おだてられて実力を発揮できるようになったと思い始めたのもその頃からだった。鏡に写っている自分の顔がいつも自信に満ち溢れているように見える。思い込みなのかも知れないが、思い込みであっても結果オーライ、まわりから信頼されるほどになっていた。
それが気持ちに余裕を生む、余裕ができれば、まわりのことが見えてくる。それがうまい具合に歯車が噛み合うと、相乗効果が生まれてくるのだ。
鏡を見ていて、自分の表情を気にしていると、今度は後ろに写っているものを確認してみたくなる。
自分の顔は鏡でしか確認できないので、本当に鏡に写っている世界が真実を写し出しているものなのか、半信半疑である。だが、まわりに写っているものは、直接も確認できるので、実際に後ろを見ながら、鏡の奥に写っているものを確認しようとするのだ。
無意識の時もあれば、意識する時もある。鏡を見ている時間がすぐに終わらないのはそのためだ。
「女の子じゃないんだから、そんなに鏡を見てどうするんだ」
と古風な考えで凝り固まっている父親に言われることもあるが、
――何言ってるんだ。自分を知らずして、人のことなんて考えられるものか――
と心の中で反発心がメラメラと燻っているのを感じる。
父親への反発心は、他の人に対して感じる反発心がないだけに、集中している。本当にメラメラという表現がピッタリかも知れない。鏡を見ている時に、
「女の子じゃないんだから、そんなに鏡を見てどうするんだ」
と、声を掛けられたことがあったが、その時の自分の顔と、父親の顔を忘れることができない。
――これは本当の自分の顔ではないのかも知れない――
それだけ憎悪に満ちた顔だった。その証拠に後ろに写っている父親の顔は、妖怪の口元がこれでもかというほど裂けていて、とても人間の顔だとは思えないほどだった。
――まるで心の中を写し出しているようだ――
自分の気持ちに余裕がまったくなくなり、正常でないことが自覚できると、きっと鏡にはその時の心境が表情となって写し出されるのだろう。
鏡を見ていると、後ろが次第に暗くなってくるのを感じる。暗くなってきて、すべてが影に包まれてくるような錯覚に陥るが、
――瞬きをすると元に戻っている。瞬きを我慢してじっと見続ければどこまでくらくなるのだろう――
などと考えたが、そこまでするのは愚の骨頂、自分の表情を見るだけで精一杯である。
恵子に話したことは、その時のことを思い出して話していた。気持ちに余裕がなくなって、自分の表情が信じられないことはその後も何度かあったが、ここまで背景が狂って見えてくることはなかった。
恵子の話を聞いていると、その時のことを思い出すのだ。その後、変なことが起こったりしたわけではないので、不吉なことの前兆というわけではない。ただ精神的に余裕がなかったというだけで、恵子には自分に余裕がなかった時に見えたことを話したとしても、別に問題などあろうはずはなかった。
しかし、恵子が話している鏡の奥の世界の遠近感については感じたことがなかった。言われてみれば、
――そんな気もするな――
と思うのだが、瞬き一度で元に戻るのだから、そこまで確認できないだろう。
一度我慢してしまうと、次までの我慢は無理である。トイレを我慢することを思い返せば分かることであって、一度我慢してしまうと、次まではあっという間だ。
――明るさと影、そして遠近感――
キーワードであるこの三つは、それぞれに関係している。暗くなれば影を感じ、影が遠近感に与える影響は少なくない。鏡の世界は未知なる世界なだけに、見えている光景に少しでも疑問を感じれば、不思議に思う気持ちが無限に広がったとしても、無理のないことに思える。
ある日恵子は鏡を見ていた。悟の話を思い出しながら見ていたのだが、自分の顔に注目していたのではない。今回は最初から鏡の中の世界に思いを馳せていた。
もちろん、こんなことは初めてで、そもそもどうして鏡を見ようと思ったかということすら、自分の中で忘れてしまっているようだ。気がつけば鏡を見ていて、ほとんど自分の表情を気にしているわけではない。
なぜなら自分の顔がハッキリと確認できないからだ。
後ろからスポットライトが当たっているかのように明るく、自分の表情がシルエットになってしまっているからである。スポットライトがあるわけではないことは分かっているが、なぜかスポットライトがあることに対して不思議に感じない。
じっとどこかを見ている。焦点が合っているようで合っていない。そんな感じが今までにもあったが、これほど鏡を見ていてそのことを感じるというのは初めてだった。
後ろを振り向くのが怖い。これほど後ろが明るく写っているのに、それを感じさせないということは、鏡が写し出している世界がウソであるということである。
鏡の向こうが次第に暗くなってくる。何度か感じた感覚だが、今回は暗いことよりも、影の向こうに見える白い霧のようなものが気になっていた。
今までに見たホラー映画の影響だろうか、白い霧の向こうに白髪の紳士が立っているような気がしてくる。紳士は無表情で、顔の色も限りなく白い、服まで白く、それが白衣なのか、死に装束なのか分からないが、目だけが黒いだけである。これほど気持ちの悪いことがあるだろうか? 恵子は目を逸らすことができなくなってしまった。
――きっと夢なんだ――
自分に言い聞かせる。夢だということが分かっていると、今までに見たことのある夢だという気が次第に膨らんでくる。もちろん、いつだったかなど覚えているわけもないが、鏡の世界は夢の世界に通じるものだと認識した。
夢で悟が出てくる時に、よく鏡を見ていたように思う。夢の内容を覚えていることなどないことだが、なぜか、悟の夢と鏡とは切っても切り離せない気がして仕方がない。
向こうに現われた白衣の人の表情はハッキリと分からない。だが、女性だといわれればそんな気がしてくるような華奢な身体つきである。
後ろにいる白衣の人の目線で見ているもう一人の自分がいることに気付く。きっと以前に夢で見た時、その角度で見ていた記憶があるからではないだろうか。同時に違う角度から見ることなど難しいのに、いとも簡単にできるというのは、夢の成せる業ではないだろうか。
楽器を得意とする人であれば、左右の手で違う動作ができることから可能かも知れないが、それができないために楽器を最初から諦めた恵子に、見ることができるはずもない。
作品名:短編集87(過去作品) 作家名:森本晃次