青い絆創膏(前編)
「凛、ごはん食べたの?もう八時よ?」
私はその朝、ちょっと考え事をしながら、ちんたらとごはんを食べていた。いくらかは眠れたはずなのに頭は重かった。その中で、漠然とした何かを脳みそが勝手に追いかけ、消化しようとしているように、頭の中には意味のない言葉が散らばる。
“大人ってなんだろうか。下らない理由のために日々をただ消費してるだけでも、年齢が上なら大人なんだろうか。私はそんな下らない人間にはなりたくない。”
そんなふうにどこかすねていて、私の考えは疑いの中で停滞していた。そこへお母さんが横槍を入れた。
「今食べてる」
そう返すと、「そう、じゃあ早く終わらせて学校に行きなさい」と、母は振り向かずに、父の分の皿を洗っていた。
私は食事を終えてシンクに食器を下げ、それでも洗い物から顔を上げない母親をちょっと見ただけで、「行ってきます」と言って学校に向かった。
家から歩いて五分の場所に、私の通う県立高校はある。特に受験では困らないし、それなりで入れてしまうところだからか、周りの生徒は遊ぶのに夢中だった。
中学では、相手に合わせて意味のないことを喋ったり、馬鹿馬鹿しいことではしゃぐふりをするのが苦痛だった。でも高校に入ってから、それに加えて、犯罪まがいのことに手を出す生徒も影で見るようになった。高校生の方が質が悪い。私はそんなことはしないし、高校に上がってからは、生徒と喋ることもあまりしていなかった。
私はいつも学校では、本を読んでいるふりをしていた。その実、適当にページをめくるだけで、頭の中では空想をしているんだけど。
歩道の横に、大きな校舎を抱えた広いグラウンドが、柵越しに見える。桜の木が柵に沿って植えられているけど、今は立ち枯れたように幹と枝だけになって、かえって幹が堂々と太いのがよくわかった。私は何人もの生徒に追い越されて、するりといつものように校門をくぐった。
下駄箱のところで、不意に「おはよう、凛ちゃん!」と声を掛けられて、振り返ると、クラスメイトで後ろの席に座っている、木野美子が立っていた。
「おはよう、美子ちゃん」
仕方なく返事はしたし、笑いもしたけど、私はやるせないほどに虚しさを感じていた。この「朝の挨拶」というのを、クラスメイトといちいち交わすことが、私には理解できない。だって、それはたいがい、全員と交わすものではない。
あるクラスメイトとは挨拶しないけど、この子とこの子とこの子とはする、なんて、変じゃない?
「今日も寒いねー」
「そうだね。今日、体育の実技だけど、体操着持ってきた?」
「あ、忘れた!…もー、借りに行くと佐原にいつもちくちく言われんの、うざいよねー」
「まあね」
ああ、なんでこんなこと言わなくちゃいけないんだろう。それでも自分から話題を広げてでも、なぜか喋ろうとしてしまう。
いよいよひねくれていきそうな頭を少し掻いて、私は木野美子と一緒に、一年一組の教室に吸い込まれていった。
「では次の問題はー…跡見、前に出てきて訳しなさい」
昼前の英語の授業で、私は出席番号順に回ってきた問題を解いた。長い英文を和訳しなくてはいけないけど、先生がすでに単語はすべて黒板に書いてくれているので、その順番を間違えずに入れ替えればいい。
黒板の前で私はいくらか上を向き、白いチョークの硬い感触を心地よく感じながら、それをカツカツと削った。
「…うん、正解だ。席に戻りなさい。ここでみんなに理解してもらいたいのは…」
私は、先生の説明を大して真剣に聞いていなかった。だってちゃんと教科書に書いてあるし。でも一応聞くだけは聞いておけば、テストでは90点近くまでとれる。
よく、誰かが軽率に「こんなこと勉強してなんになるんですかー」と、いかにも退屈そうに教師に聞いたりする。もちろんそれは、実際に解いた問題が役に立つことはほとんどないという意味で、不平不満を言うんだろう。でも、もしそういう問いの答えが今すぐわかって、「まったくの徒労」だとしよう。だとしたら日本中、世界中にこんなに学校が溢れているわけがない。その答えは、ずっと後になって、後悔をするか、感謝をするかの形で、身を持って理解するんだろうと、私は思っていた。そして私は、多分後悔をする方の部類だと思う。真面目に勉強はしていないし。
昼になり、教室で昼食を食べる生徒たちを残して、私は一階廊下を右へと折れた。私が居る一年の教室は、一階にあるのだ。
廊下の突き当りを左に折れて更に進むと、玄関の近くにジュースの自動販売機がある。そこで小銭をいくらか入れて、紙パックのフルーツ・オレを買うボタンを押した。ガッコンと取り出し口にクリーム色の紙パックが落ちてくる。それを取り出すと、私はすぐにストローを刺した。
それから廊下をずっと戻ったけど、一年一組の教室の前を通り過ぎて、逆方向の突き当りにある階段へと、私は進んでいった。
一足一足、いつもどこか疲れている足を引きずって、甘みの強いフルーツ・オレを飲みながら、階段を登る。見えてきたのは、行き止まりになった四階に通せんぼをするような、古い鉄の扉。
「よっ、こい、しょっ…」
私はその重い扉を少々持ち上げながら、体ごと押して開けた。みるみる扉の隙間から眩しい日差しが現れ、私は誰も居ない屋上に解き放たれる。
上を見れば、空だけが見えた。青いカーテンを神様が作ったような、だだっ広い空は、目に収まり切ることなんかない。それを眺めるために屋上に横になってジュースを飲むのが、私の日課だった。
屋上に出れば、面倒ごとなんか追ってこない。それに、誰も私にとやかく言わない。そんな気がするのだ。
ただ、その日は違った。