加害者のない事件
「私は理工学部の学生で、三年生です。名前は砂川道夫といいます。あの日は、実習が朝まであって、徹夜だったので、朝になって顔を洗いに教室の表に出たんですが、そこで発見しました。足だけが見えていたので、おかしいと思って僕が近づいたんです」
「そうですか? その時、少しでも動いていましたか?」
「いいえ、まったく動いていなかったので、最初は死んでいるのかと思いましたが、脈波あったので、救急車を呼んだんです。その時に見たんですが、首に何かを巻いた跡があったんですが……」
というと、警察も察して、
「ええ、そうです。どうやら犯人がいて、絞殺しようと試みたようですね。ところであなたはその時、怪しい人物を見かけなかったですか?」
「いえ、見かけませんでした」
「実際に殺されたわけではないので、死亡推定時刻のようなものがありませんから、いつ首を絞められたのかは分からないんです。しかも、病院に到着して治療を受けたのは、発見からでも結構時間が経っていましたからね」
と担当刑事は話してくれた。
「あの、睡眠薬も服用していたと聞きましたが……」
「ええ、そうなんですよ。彼は睡眠薬を飲まされたのか、それとも自分から飲んだのかも今のところ分かっていません」
「そうですか。私が気になったのは、どうしてあんなところに倒れていたのかということなんですよ」
「というと?」
「あそこは大学でもあまり人が入り込まないところでして、我々理数系の学生であれば分かるのですが、見覚えもなかったし、どこかに行こうとしていた途中ではないかと思ったんですよ」
「どこかへ行こうと思ったとは、どこにですか?」
「それは分かりません。もし、どこか目的地があるとすれば、それがどこなのか、ハッキリとは分かりませんが、ただ、首を絞めておきながら、殺害にまで至っていないということは、きっと直後だったんじゃないかって思うんです。僕たちが出てきたので、慌てて逃げたとも思えます。睡眠薬を飲んでいて意識が朦朧としていたとすれば、動かなかったのは当然ですし、そのことが気になったものですから」
というと、
「なるほど、そのご意見は貴重なものだと思って我々も視野に入れて捜査します。ただ、これが誰かによる怨恨か何かであれば、その人だけが目的だと思いますが、もし、誰でもよかったとなると、危険ですので、皆さんにも注意をお願いしますね。我々警察としても、警備を強化するようにいたします」
「そうですね、お願いします。でも、睡眠薬が使われているとすれば、怨恨の関係が強い気もしますけどね」
というと、
「それは、飲まされていた場合ですね。たまたまフラフラしている人を見て、ムラムラと殺意がという場合もありますからね」
と警察は言っていたが、それも何となく出来すぎている気がした。
ただ、死体を発見した素人としては、どうしても被害妄想になってしまうのも仕方のないことで、犯人はどこかにいるのだろうが、睡眠薬の服用迄すべてその犯人に押し付けてしまうのは危ない発想だと反省した砂川だった。
砂川という学生は、以前からミステリーや探偵小説を読むのが好きで、よく本を読みながら自分でも推理したりした。そして彼の特徴は、一度読んだ本を何度も読み返すことにあった。
さすがに駄作だと思った本は、一度読んだだけで本棚の展示物にしかなっていないが、気に入った作品は気に入った場所を暗記できるほど読み込んでいた。だから好きな作家の作品の特徴は掴んでいるつもりだし、トリックの穴や、一度読んだだけでは分からなかった面白さを再発見することもあったのだ。
ミステリーと言っても、結構昔の探偵小説である。戦前戦後の陰懺な事件がいつ起きても無理のない時代そんな頃の小説が好きだった。読んでいてドロドロした人間関係であったり、殺害方法の陰湿さ、ホラーを意識させる作品は、一気に読破してしまうにふさわしい作品だった。
そのほとんどを小学生の時に読み、さらに最近、大学に入ってから読み直している。理工学部という理数系の学部に所属していることもあり、気分転換の意味もあった。
しかも一度読んだ話なので、気軽に読むことができる。思い出しながら読んでいると、小学生ながらに感じた恐怖がよみがえってくるのだ。
大学生になってから初めて読むよりもある意味新鮮なのかも知れない。砂川の好きな作家のセリフの中に、
「トリックというのは、そのほとんどはすでに出尽くしていて、これからの探偵小説は、それらのバリエーションによるものだ」
と言っていたが、彼の作品では同じようなシチュエーションを他の作品でも使用することが多かった。
それでも、別にそれを悪く言う人はいない。元々自分の作品なのだから、盗作云々という話になるわけもなく、逆にファンにとってはそんなサプライズが嬉しかったりする。
ミステリーを読み込んでいるからと言って、さすがに殺人未遂事件を目の前にして、驚愕を受けないわけはない。もちろん、身体や口から血が流れていたりすると恐怖を感じ、足が震えてしまったかも知れないが、それでも首に残ったやく殺痕は、リアルなものだった。生きていたのは幸いなことだが、しばらくは恐ろしくて人の首筋に目を向けることができないのではないかと思うほどであった。
まず一番の問題は、彼が意識を取り戻さないといけないことだろう。第一発見者というだけで殺人事件でもないのだから、砂川の役目はここまでだった。
警察では、一応やく殺未遂ということで、捜査が行われた。睡眠薬を服用し、意識が朦朧しているところで、自分で自分の首を絞めるなどできるはずがないというのが、一致した意見だった。
どこかに縄を吊って、首が入るほどの輪っかを作ったのち、その輪っかに首を突っ込んで、蹴とばすか何かして足場を外すというのが、一連の首吊り自殺のやり方だ。何よりも凶器となった紐状のものが発見されていないことで、犯人がいるということは確定しているも同然だ。
「紐だけ誰か関係のない人が持って行ったのでは?」
という意見もないではないが、では、何のためにそんなことをするのか分からないではないか。
もし、被害者を知っている人がいて、彼を殺害する可能性が一番高い人がいて、その人がこの状況を見て紐だけ持って行ったということも言えるかも知れないが、それは非常に考えにくい。
なぜなら、紐を持ち去る必要はないだろう。その紐が自分に関係のあるものであったり、同じものを持っているなどハッキリとしたものでもない限り、証拠品を勝手に持ち去るということは、それがバレたら、それこそ言い逃れはできないだろう。
「どうして持ち去った? それはお前が犯人だからだ」
と言われてしまうと、反論できるわけもないはずだ。
「ビックリして、衝動的に持って行った」
と言っても、そんなの言い訳にしか聞こえない。
警察の意見を覆すだけの理由がなければ、逮捕状が請求されて、最重要容疑者として取り調べが行われることになるだろう。厳しい警察の追求を逃れることが果たしてできるかと思えば恐ろしい。