加害者のない事件
「おや?」
と何かに気が付いたのか、首を伸ばすようにして、少し向こうを見ていた。
それに反応して後ろを振り返るやつ、彼の場所からは、もっとハッキリと見えて、そこに白い棒のようなものが横たわっているのが分かった。まだ薄暗いのでハッキリと何か分からなかったが、眼が慣れてくるとそこにある棒が二本であることが分かった。
丁寧に並行して並んでいる。綺麗にと言わないのは、平行線ではなかったからだ。恐る恐る近づいてみると。次第にそれが何か分かってきた。
「ギャッ」
と叫んだが、腰が抜けてしまったようだ。
その様子を見て、隣の男が、
「おいおい、どうしたんだよ」
と言って声を掛けたが、彼もそれに気づくと、
「あ、あれ、足じゃないか?」
建物の影で半分見えていない部分は想像するしかないが、確かにその二本の棒は、人間の足のようだ。
「死んでるのか?」
まだ、足を確認できないやつが声を掛けてきた。
彼は見ていないので、気が楽なのだろう。とりあえず誰かが確認しなければいけないが、さあ、誰が確認するというのだ。
「俺がいく」
と、五人その場にはいたのだが、五人いれば一人くらいは、声を上げるやつも出てくるだろう。
だからと言って彼に度胸があるわけではない。
――いざとなったら、他の誰かを盾にして逃げればいい――
と普段から思っているやつなので、とりあえず根性のあるところを見せておけば、後で腰を抜かしても、他の連中よりはマシだろうという程度の度胸だった。
見返りと求める度胸というのは情けないもので、それでも、この場で自分から言い出すというのは、確かに度胸があると言えるだろう。誰かがしなければいけないのであれば、彼の行為は決して卑下されるものではない。
彼は腰を半分沈めて、相手に気付かれないように近づいた。本当は生きていて気絶しているだけなら、こっちは死んでいると思って近づいてしまうと、彼が起き上がった時、まるで、
「幽霊にでも遭遇したみたいだ」
ということで、腰を抜かして動けなくなるかも知れない。
まさかとは思うが、本当の幽霊であれば、どうすればいいのか、彼は幽霊の存在を半信半疑だったが、この状況になると、やはりいるのではないかという方にかなり傾きかけていた。
「幽霊なんているものか」
とまるで、気持ちは小学生の臨海学校でやった、肝試しのようだった。
そんなことをかんがえながら、そお足に見えるところに近づくと、だんだんと、身体の部分が見えてきた。その人は俯せになった状態で、ズボンのお尻がこちらに見えていた。どうやら体格から見て、男性のようである。
気持ち悪くはあったが、そのままにしておくわけにもいかず、自分から確認すると言った手前、後ろに下がるわけにもいかなかった。
「おい、大丈夫か?」
近寄ってみると、どうも動く気配がしない。思わずただ事ではないと思い、大声で叫んだ。
「救急車を急いで呼んでくれ」
と後ろを振り向かずに言った。
後ろを振り向く勇気もなかったのだ。もしここで後ろを振り向いて、
「ここに寝ている男性がいきなり起き上がって、こちらを攻撃してきたらどうすればいいんだ」
などと考えると、後ろを振り向く勇気もなかった。
ただ、身体は後ろを振り向いていたので、顔だけが倒れている男を監視しているというおかしな体勢になっていた。
ただ気絶しているだけならいいが、そうでなければ大変なことだ。彼は理数系であったが、医学に関してはまったくの素人だった。できるとすれば脈を図ることくらいだろうか?
呼吸や脈は何とか動いている。ただ、見ていると虫の息のようだ。
「おい、しっかりしろ。もうすぐ救急車が来るからな」
と言って、彼の頭にさっき自分の手を洗った時に拭いた手ぬぐいを頭の下に敷いて、頭を高くすることで少し楽にさせてやろうと思った。
その時、彼の首に目が行った。普段なら気にならないだろうに、そこに目が行ったというのは、違和感を抱いたからだ。
首筋に赤くなった筋が何本か見えた。その瞬間、
――首を絞められたんだ――
と感じた。
彼は言葉を離そうとしていたが、声にならないのはそういうわけがあったのだ。
素手で首を絞めたのなら、ここまで首のまわり全体に着くわけはない。何かの紐状のもので絞められたのは一目瞭然だった。
彼はそれを見ると今まで混乱で何も考えられなかったのに、冷静さを取り戻し、考えるに至った。
――紐状のものということは、突発的に首を絞めたわけではなく、最初から絞殺するつもりだったんだ――
と感じた。
ただ、とどめが刺せなかったのは、
――きっと我々が校舎から出てきて、見つかるのを恐れたからではないだろうか?
と感じた。
すると、賊はまだこの近くに潜んでいるのではないだろうか。ただ、とどめが刺せなかったとはいえ、見つかるのを恐れて途中でやめたのであれば、一刻も早くここを立ち去りたいと思ったことだろう。
だが、考えてみればおかしな気もする。確かに朝の大学キャンパスはほとんど人はいない。しかし、自分たちのような理数系の学生が徹夜で実習や実験を行っていることくらい大学生であれば分かりそうなものだ。それなのに、ここを殺害現場として選ぶのは少し違うような気がする。
しかも、彼は紐状のものという凶器も用意しているのだ。突発的な犯行だとは思えない。
「もし、被害者が大声を出したり暴れたりすれば、どうするつもりだったのだろう?」
そう思うと、何となく釈然としないところがあった。
そのうちにキャンパスの外を救急車のサイレンのけたたましい音が、早朝の静けさを突き抜けるように鳴り響いた。
このあたりは大学のキャンバスがあるくらいなので、閑静な住宅街の一角にある。なかなか早朝からの救急車のサイレンの音というのも経験がないに違いない。
――そういえば、昨年も救急車の音が鳴ったことがあったな――
というのを思い出した。
あの時は、午前中の学生の多い時間だったので、学生たちはビックリしただろうが、近所の人は、救急車の音くらいで驚くこともなく、誰も家から飛び出してくるということはなかったようだ。これだけ学生が密集しているのだから、たまに誰かが熱中症や、貧血を起こしても不思議はない。さすがに救急車というと大げさだが、意識不明にでもなると、救急車は必須であろう。
救急車が当直し、担架を持った二人の白衣にヘルメット着用の男性が、まるで電光石火の早業のごとく、患者を担架に乗せて、さらに救急車へと載せる。
「大丈夫ですか?」
と声を掛けるも、返事がない。
人工呼吸器が掛けられ、けたたましいサイレンとともに、救急車は走り去った。一応、発見者である学生が一人、同行して病院に向かったことは言うまでもない。
その後分かったことであるが、彼女は多量の睡眠薬を飲んでいたらしく、意識が朦朧とし、そのまま気を失ったということだった。命には別条ないということだが、意識が戻るまでにはしばらく掛かるということだった。一応警察がやってきて事情聴取も行われたので、まず聴かれたのは、第一発見者の学生だった。