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加害者のない事件

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 久しぶりに感じた女の肌、まだ童貞の時に、大学の先輩から連れていかれた風俗の店での感動を思い出していた。
 とはいえ、今度はまったく違和感がない。
 今までが異常だったと正常に目覚めたつもりでいる安川は、ひょっとすると、深溝の存在自体が自分にとっての黒歴史になったのではないかと思うようになった。
――もし深溝が誰かに刺されなければ、この俺が刺していたかも知れないな――
 と感じた。
「実は今日私が来たのは、これを見ていただきたいと思ったからなんです」
 と言って、瑞穂が取り出したのは、何と安川の部屋から持ち出した、例の注射器の入った箱だった。
 瑞穂はあの箱を持ち出すことで、安川の麻薬に関わる犯罪を隠蔽しようとでも思っていたのではないか。あるいは、これをネタに、安川を脅迫でもしようと思っていたのだろうか? 少なくともそのどちらかでしかないと思われていたものを、何を思ったか、考えられることのまったく正反対の行動とも言える、証拠品を探偵に示すという暴挙をやってのけたのだ。
「これは?」
 と鎌倉先生が聞くと、
「これは、安川さんの部屋から見つけたものです。彼と私はお付き合いしていたので、彼の部屋に入ることは無理なことではなく、彼が大切なものを隠している場所は分かっていましたので、これを見つけることができました」
 と言った。
 しかし、その言葉を鎌倉は全面的に信用してはいなかった。特に気になったことをさっそく口にしてみた。
「ああたは今、彼が大切にしているところが分かっているので、見つけるのは簡単だとおっしゃいましたが、では、その場所をわざわざ探してみたのはどうしてですか?」
 と聞いたが、これは何かそこにあるという確証があったから、探してみたと言っているのと一緒だ。
 それを鎌倉は指摘したのだ。
「ええ、私は安川さんが私と別れようとしていることに気付いていたので、きっと彼に誰か新しい彼女ができたのではないかと思って探っていたんです。そして探している時にそれをちょうど見つけたというわけなんです」
 と言った。
 この言葉には実はウソはなかった。確かに安川は深溝の男の身体に嫌気がさし、そして瑞穂の身体を求めることを選択した。
 しかし、オトコと切れたから瑞穂に流れたわけではなく、瑞穂だけでは我慢できない自分をその時に同時に知ったのだった。
 安川の次なるターゲットはつばさだった。
 だが、つばさは瑞穂と仲がいい。彼女のことを心配して鎌倉を紹介してくれたのもつばさだった。安川はそんなつばさの行動力にも魅力を感じていた。彼女には、瑞穂にはない眩しさが溢れているように見えたのだ。
「隣の芝は青い」
 という言葉があるが。それは見る視点が違うからだと言われている。
 この場合のつばさが青く見えたことは、瑞穂にも安川がどんな厭らしい目でつばさを見ているかに気が付いた。つばさの方ではまったく意識していないようだったが、男と女というのは、いつどこでどうなるか分からない。それを思うと瑞穂は気が気ではなかったのだ。
 そんな厭らしい視線にまさか瑞穂が気付いているとは安川も思っていない。安川は瑞穂よりも深溝の視線の方が怖かった。逆恨みまではないだろうが、少なくともこちらが優位な状態を保っていないと安心できないと思っていたのだ。
 それは精錬実直で知られている深溝の本性を知っているからだ。彼は下手をすると何をするか分からない男に見えた。殺されたりすることはないだろうが、安川を社会的に抹殺することくらいはできるであろう。
 深溝のような精錬実直でまっすぐな性格の男の言い分と、自由奔放で気ままな安川の言葉と、世間はどちらを信用するだろう。被害妄想的なところもあった安川は、自分に味方をしてくれる人などいないと思っていた、それは瑞穂に対してもそうだった。彼女とは言いながら、何を考えているか分からないところがあると思っていただけに、全面的な信頼は寄せていなかったのだ。
――今まで自分を信用してくれる人がいるとすれば、それは深溝しかいなかっただろう――
 という思いが、皮肉にしか思えないくらいだった。
 深溝を裏切る形になった安川は、同時に味方を失ってしまったことを知った。
「早まったことをした」
 と地団駄を踏んだが、もう後戻りできないことだ。
 特に相手は深溝だけではなく、瑞穂も同じで、相手はまったく性格の違う二人だ。
「こちらを立ててればこちらが立たず」
 まさにこの言葉が示している。
 安川は追い詰められていたのだろう。
 鎌倉は、このあたりまでの事情は分かっていたようだ。
「ま、大体のことは予測がついています」
 と言って、安川が怪しいことを、順序だてて瑞穂に話した。
「まあ、じゃあ、安川さんが企んだことなのかしら?」
「そういうことではないあkと思います。クスリのことにしても、あなたとの関係、深溝君との関係。彼を擁護するつもりはありませんが、彼はある程度追い詰められていたんでしょうね。ただ、瑞穂さんに対しての愛情にウソもなかったと思っています。もし、それを否定するとすれば、この事件は最初からなかったのと同じですからね」
 と、鎌倉は言った。
「ということは、安川さんは私と深溝さんの間に愛情のジレンマと、クスリのジレンマがあったことで、私と深溝さんからいいようのないプレッシャーを感じ、私と深溝さんのどちらも抹殺しようと思ったということでしょうか?」
「ええ、ただ、二人とも完全に息の根を止めるようなことはしたくなかった。そこまでは悪人にはなれなかったんでしょうね。自分がこんなことをするのも、二人のせいだと思い込んだのは無理もないことだと思いますが、そのために行うやむ負えないことというのはあくまでも制裁であって、処断ではないということですね。彼にもそれくらいのことは分かっていたはずです」
「でも、精神的にはかなり痛手にはなりました」
「もちろん、そうでしょう。それに彼がやったことは制裁であっても許されることではありません。最終的な動機はエゴも入っていますからね」
「それはつばさに対しての気持ちでしょうか?」
「ええ、ただつばささんに対しての気持ちが本当に愛情なのか、僕には疑問なんです。もし、つばささんに対しての気持ちが愛情であれば、ひょっとすると、もっと安川さんに対しての嫌疑は遅くなっていたでしょうね」
「というのは?」
「もし、つばささんに対しての愛情が本物なら、我々、特に瑞穂さんには、それが自分へのものだと思ったかも知れないということです」
「どうしてそう思われるのですか?」
「安川君というのは、あなたが好きになったので分かると思いますが、恋愛に関しては精錬実直なんです。だから、男同士とはいえ、深溝さんのような精錬実直な人とあのような関係になった。だとすれば、つばささんに対しての愛情もあなたに対してのものと同じような気持ちなので、ちょっと分かりにくいんじゃないかと思うんです。あなたも、安川さんがまさか相手が男だとは思わなかったでしょうが、他に誰かいるなんて思わなかったでしょう?」
 と言われ、瑞穂は少し考えてから、
作品名:加害者のない事件 作家名:森本晃次