加害者のない事件
「ええ、深溝さんの人間関係は警察から伺っていますからね。それが分からないと、治療もできないということで、話してもらいました」
「そうだったんですね。本当ならお恥ずかしくて言えることではないのですが、これも彼に治ってほしいという思いから、僕も恥ずかしさを捨てて話しています」
というと、またしても教授は苦笑いをし、
「いえ、これは思い切っていただいてありがとうございます。深溝さんの治療には我々も全力を尽くします。ただ、一歩間違えると、他の記憶が戻った時に、そのまま残っていた記憶の一部が完全に消えてしまうという危険性もあるんです。それがこの治療の難しいところではないでしょうか」
と教授は言った。
「どういうことですか?」
と安川が聞くと、
「普通の人は記憶がない場合、途中が欠落するというのは珍しい気がします。彼の場合のように途中の記憶が欠落している人は、その部分の記憶がよみがえってくると、記憶を失ってからの今ある記憶が飛んでしまうということが往々にしてあります。もちろん、普通の記憶喪失の人でもありえることなんですが、可能性としては、途中が欠落している人の方が大きいのではないかと思っています。もちろん、ハッキリとしたものがあるわけではありませんけどね」
と、担当医が言った。
「そうなんですね」
「それとクスリというものを、彼が何をどのように何の目的で使用していたのかが分からないと何ともいえないですね」
と言っていた。
この件に関しては担当医よりも警察や探偵よりも安川の方が詳しい。まだ他の誰もそのことに気付いていないと思うと、心のどこかで知っているのが自分だけだという満足感のようなものがあったのは確かなことであった。
安川は、担当医がどれくらいのことを知っているのかということも気になっていた。警察よりも探偵よりもまず最初に分かるのは医者だと思ったからだ。
警察の方ではクスリに関しては、そこまで重要に考えていないふしがあった。
「担当医がそのうちに確定してくれる」
という程度ではないだろうか。
それよりも、もっと必要なことがあるはずだ。被害者の人間関係、そして、その日やその前後の行動、なぜ瑞穂が自首しようと思ったのか。ひょっとすると誰かい自首を強く勧められたのかも知れない。
そうなると彼女の信頼できる相手が問題になってくるが、今のところ考えられる相手とすれば、同僚のつばさか、彼氏である安川になるだろう。安川の方でいえば、彼は被害者と親友という関係でもある。普通に考えれば、安川に相談して彼に自首を促されたと考えるのが一番自然ではないだろうか。
警察はそのあたりから捜査をしていたが、実際には人が死んでいるわけでもないので、言い方は悪いが、もっと優先すべき事件もないわけではない。すべての捜査陣をそちらに割くというわけにもいかないだろう。
安川が病院を訪れたのは、警察の捜査以外の医療的なところでの状況を知りたかったというのも一つあった。それに関していえば、今日得られた情報は想像以上のもので、しかも安川が懸念していたところまで分かっているわけではないということで、安川にとって安心であった。
ただ、いくら羞恥心を捨てているとはいえ、さすがに初めての看護師などの前で、自分が同性愛者だなどということが分かってしまったのは、ちょっとショックでもある、
――羞恥心を捨てたと思っていたけど、それは深溝との間に本当の同性愛が継続しているのであれば、捨てることができていたかも知れないが、今まさに羞恥心が戻ってきたということは自分の中で深溝との間の同性愛という関係が、二度と元に戻らないということを自覚しているからなのかも知れない――
と感じた。
自分が同性愛に目覚めた時期を思い出そうとすると思い出すことができなくなってしまっていた。思い出すことができるとすれば、それはそばに深溝がいるからではないだろうか。深溝を失ってからの安川は、瑞穂に対しても中途半端になってしまい、瑞穂にも余計な気を遣わせてしまったのではないかと思った。
「もう、今日でこれが最後だからな」
と言われて、その覚悟を持って出かけたはずの深溝の部屋。しかしそこに深溝はいなかった。
合鍵を持っていたので、そのカギで中に入ってみたが、いつもは布団から起き上がるだけでもキチンと畳む癖のあった深溝であったのに、その日、部屋の中にいないばかりか、布団も中途半端であった。
まるでのっぴきならない事情が持ち上がって、布団を畳む暇がなかったかのような感じである。
「おーい、いないのか?」
声を掛けても返事がない。
今までにこんなことはなかった。自分が来ると分かっているのに部屋を開けることはなく、開けるなら置手紙か、後から携帯に連絡があるはずだった。そのどちらもなかったので、安川は不安に感じていたが、まさか殺害未遂の状態になっているなど、思ってもみなかったのだ。
だが、考えてみれば、もし瑞穂が自首してこなければ、殺人未遂の参考人として最初に疑われるのは自分だったはずだ。瑞穂が本当に深溝を襲ったのかどうかまでは分からないが、自首したということは、その時一緒にいたということなのであろう。ただ、気を失っていたということでもあるし、本当のところは分からない。まず瑞穂の自首から警察が裏を取っているのだから、自分に対しては少しは猶予があると思っていた。
しかし、安川のアリバイは完璧なものだと思っていた。あの日、安川の部屋の前にいて、合鍵で中に入るところを近所の知り合いの人と出会い、会釈などの挨拶をしたのだから、その人が証言してくれるはずだった。
そういう意味で安川は安心していた。
その時安川は深溝の部屋で見慣れないものを見つけた。
金属の、まるでブリキのような角が丸まった長方形の容器だった。その大きさは昔の筆箱くらいのものだったが、そこまで長細いものではなく、どちらかというと、お弁当箱に近かったかも知れない。
ただ、この容器は以前にもどこかで見たことがあるような気がした。しかも、あまり気持ちのいいものではない。鼻を突く臭いを一緒に感じさせるものだった。
しばらく考えていたが、
「ああ、これは注射器の容器だ」
これが何のために使用されるものなのか、見ただけで安川には分かった。
その時の記憶が、さっきの担当医との話に繋がった。
深溝は睡眠薬と一緒に他のクスリを服用していたという。注射による接種ではあったが、それも同じこと。そのクスリが検査によって出ないように、睡眠薬を服用していたとすれば、これは完全に確信犯だ。
――だけど、あれだけ生真面目で、真正面なやつが、まるで化け物の仮面をかぶっているかのような怪しい面も持っていたというのは、すぐには承服できないところがあったよな――
実は、安川が深溝と一緒にいるのは、同性愛というのも一つなのだが、彼に対して感じている、
「自分にないものを持っているやつ」
という思いが強かったからだ。
自分にないもの、それは彼には裏表がないというか、確かに両面はあるのだろうが、表に出ている部分を必死になれるというところであった。