加害者のない事件
「どうでしたか? 深溝さん。なかなかご自分のことを思い出せないということで、苦しんでいる時期もありましたが」
「ええ、今は眠ってしまいました。あっという間に寝てしまっていたので、僕もビックリしました」
「そうですか、これは睡眠薬の副作用ではないかと思っているんですがね」
「副作用なんて、そんなに一度飲んだだけで残るものなんですか?」
と聞くと、
「一度ではありませんよ。深溝さんは睡眠薬を常用していたようですね。ただ、普通にしている分にはその副作用も出ませんし、一目見ただけでは睡眠薬の常用とは分かりませんね」
「そういえばさっき、先生は両極端になるかも知れないとおっしゃいましたが、それは正反対という意味とは違っているんですか?」
「ええ、正反対の症状というのは、元々から片方の状況しか表に出していなくて、ふいに何かあった時に、初めて表に出てきた症状を私は『正反対』というようにしていなす。でも正反対の性格や性質であっても、それを時と場合によって使い分ける時、つまりジキルとハイドのようなまったく正反対の性格を表に出すことのできる人間が、今表に出ていることのもう一つを出してきた場合、私は『両極端』と呼ぶようにしています。だから別に正式に決まった言い方ではなく、私オリジナルということですね」
と言って笑った。
さすがに難しい言い回しだが、聞いてみると納得のいくものであった。この先生は神経外科などが専門で、深溝のように記憶を失くした人の治療もたくさん手掛けてきたということだった。
ただ、今回は、
「殺害されそうになった被害者」
ということで、警察からの依頼もあるので、他の人には任せられないということになったのだろう。
「ところで先生。今の先生のお話ですと、彼は目が覚めた時、どちらの自分になっているのか分かっているんでしょうか?」
「そうだね、自分では分かっていると思うよ。ただ、それが自分の意志によるものなのかは難しいところだと思うけど、少なくとも今度の事件が起こるまでの彼は、目が覚めた時の自分をコントロールできるタイプの人間だったんだ。だからこそ、表には精錬実直に見えて、融通の利かないところが欠点だという、まるで教科書のような性格を表に出していたんじゃないかな?」
「そうなんですね。僕も深溝という男のことをもっとよく知っているつもりでいたんですが、なかなか難しいですね」
というと、
「そうでしょう。自分こそが他の誰よりもこの人のことを分かっているという感覚でいたわけでしょう?」
「ええ、その通りです」
「それが、相手には余計なプレッシャーになってしまうことがあるんです。あなたは彼が自分のことを同じように感じていたということを自覚していますか? していないでしょう? 意識していないのではなく、意識しないように自分でコントロールしようとしているんです。それができている間はお互いの関係はこれ以上ないというくらいにうまく行くはずです。ツーと言えばカー、当たり前のことのように思っていたでしょう? 歯車が綺麗に噛み合っていたからです。だから歯車の存在にも気づかない。それが一歩外れると、必ず合わさっているもう一つが崩れます。歯車というのは、皆均等に作られていますから、基本的に一つが噛み合わないと、二度と噛み合うことはありません。それが交わることのない平行線です」
教授の話を聞いていると、どうやら治療を受けている今も状態の深溝は、すでに、我々が感じている理性というものも、羞恥心もないのかも知れない。
「教授、彼の中に、羞恥心や理性のようなものは残っているんですか?」
「それはもちろん、残っているはずです。表に出てこないのは、彼の両極端な部分が出てくることで、裏に回っただけのことです。今までの彼を押さえつけていたものが解き放たれたとでも思っていただければ、分かりやすいかも知れませんね」
と教授はいう。
「このことは警察の人も分かっておられるんですか?」
「ええ、当然報告義務がありますから話をしています。でも、調書という形では残していないようですよ」
「どうしてですか?」
「一応まだ病院ですからね。病気である以上、今の状態で調書を取っても、それを裁判では採用してくれないでしょう」
「なるほど、その通りですね」
と、当たり前のことを聞いてしまったことに思わず苦笑してしまった安川だった。
「ところで、あの睡眠薬ですが、彼は何に使っていたんでしょうね?」
と、今度は医者が聞いてきた。
「何にとは?」
「どうもただの不眠症で使用していたという感じはしないんです。この睡眠薬は特殊なもので、実際にはなかなか手に入らない。病院で処方してもらっていたという話ですが、今彼の身体にある睡眠薬とは違うんですよ。ただ……」
と、教授は少し言葉に詰まった。
「ただ?」
「ええ、ただ気になるのは、彼が睡眠薬とは別に何かの薬を使っているということは分かるんですが、それが何なのか、すぐには分からないんです。もちろん、専門で精密に調べれば分かることなんですがね」
「じゃあ、彼は病院で処方された睡眠薬とは別の種類の睡眠薬を服用しているということですか?」
「そういうことになります。ただし、この睡眠薬も便宜上睡眠薬と言ってはいますが、実際には精神安定剤に近いものです。だから、病院では処方してくれません。それを持っていて、しかも体内から、他の薬物が疑われるというのは、ここから先は警察の分野ですね」
と言われた。
しかし、ちょっと考えれば分かることなのだが、そんな情報を、警察でもなければ探偵でもない一介の学生に話すものであろうか。もちろん、自分よりも先に警察には話をしているのだろうが、ひょっとして警察からも、安川が質問してくれば、話してもいいなどと言われているのだとすれば、警察は安川にこの事件で関係者以上の何かを感じているのかも知れない。
しかも薬物関係に関しては、直接何かを提供したというわけではないとしても、重要なことを知っていると思っているのかも知れない。
そう思うと、話してくれたことに対して疑問を持たなければいけないのに、話の内容が本当に初耳だったこともあって、安川は、まるで魔法い掛かってしまったかのようになっていた。
――ひょっとすると、警察はこの状況も想像していたのかも知れない――
いや、警察なのか、手をまわしているのはひょっとすると、鎌倉探偵なのかも知れない。
彼の依頼者は瑞穂であってつばさである。彼女たちの立場を守るのが彼の仕事であり、安川の立場はこの際関係がないからだ。
安川は、もうすでに羞恥心はなくなっているので、思い切って聞いてみた。
「深溝が同性愛者であるということは、ご存じですか?」
と言われて、教授は一瞬ニヤリとしたが、その表情は安川にも分かった。
「ええ、彼が自分で言っていますからね。今の彼だと、安川さんを見かけて口にしたんじゃありませんか?」
「ええ、その通りです」
「それも懐かしそうに。お相手が目の前にいれば、懐かしさと身体が最初に反応することで、一瞬その時の記憶だけが戻ってくるものなのかも知れませんね」
「先生は相手が私だとご存じでしたか」