加害者のない事件
確かに待合室という環境は実に複雑な心境を与えてくれる。まわりの人が緊張しているのも分かり、自分もワクワクドキドキが緊張に変わっているのも分かる。だが、決して嫌なものではなかった。病院の待合室などは、同じ緊張でも、なるべくならしたくない心境である。特に歯科医などは、あの薬品の臭いだけで、何もされていないのに、痛くなる。
もっとも病院というのは、基本的に身体のどこかに異変があるから行くのであって、最初から不安感という意識が伴っているので、負の要素から始まっている。しかし、風俗の待合室は、これからの楽しみが約束されている。すでにお金を払って受付を済ませていれば、あとは完全なお客さんなのだ。
だが、楽しい時間は決まっている。その決まった時間が終わってしまうと、憔悴感と一緒に襲ってくるのは何とも言えぬ罪悪感のような自己嫌悪である。この罪悪感は普通の罪悪感ではない、どこから来るものなのか、自分でよく分からないのだ。待合室での複雑な心境の楽しみが強かっただけに感じるものでもあった。
――自分の性のはけ口のために、大金を払うことに対しての罪悪感?
それとも、
―ー相手が彼女ではなく、風俗嬢というお金で繋がった関係に対しての罪悪感?
考えれば考えるほど、お金と快感が切っても切り離せないことに気が付くが、そこには羞恥心という感情が結び付けているものではないかという思いがあった。
――そういえば一番最初に、待合室の中で先輩がここにいる緊張感を羞恥心のように話していたな――
ということを思い出すと、
――なんだ、羞恥心というものを捨てれば、別に罪悪感など感じることはないんだ――
と思うことで、風俗に行き、最後に感じていた罪悪感がなくなっていた。
「人間というのは、何か一つのわだかまりから、自分の性格を形成しているものであり、捨てることができれば、性格だって簡単に変えることができるのだ」
という格言のようなものを感じた。
そう思うと、世の中にはいろいろな特殊性癖が存在し、それらは羞恥心を捨てることで、そっちの世界に入ることができる。しかし逆に羞恥心が邪魔することで、その羞恥心によって、今まで気付かなかった自分の性癖に気付く人もいる。
安川は自分を、
「羞恥心を捨てるタイプだ」
と思い、深溝を、
「羞恥心ありきで、自分の性癖に気付くタイプだ」
と感じていた。
お互いに違うタイプなのに、お互いに惹き合うことを感じたが、ひょっとすると自分が深溝に感化されてしまったのは、自分に気付いたというよりも、人を見る目が養えたからではないかと思うようになっていた。
磁石などでいれば、異なる極が結び付き、同じ極同士では反発しあうものである。しかもその異なるものは正反対の様相を呈しているのだ。そういう意味では、安川と深溝は磁石の異なる極と言えるのではないだろうか。
性格も性質も違っていれば、数学の計算のように、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるという感覚であろうか。どうしてお互いが交わるほどまでに仲良くなったのかというと、安川の場合は、自分の中に寂しさがあったからではないかと今では思っている。
逆に言えば、その寂しさが解消されれば、紛らわせてくれた相手がいらなくなるというのも道理で、少しずつ距離を取るようになったのは、安川が最初だった。
しかし、安川は知らない。実際には最初に距離を取るように意識し始めたのが深溝であるということを。相手に気付かれないように距離を取ろうと思っていると、自分が避けられていることに往々にして気付かないものである。特に二人のように、決して他人に看破されてはいけない関係にとって、他人に知られることは二人の間の破局だけではない、もっと大きなものを失うということを意味している。
男同士の愛というのは、最近ではボーイズラブなどと言って、マンガでジャンルになるくらいなので、知名度はあるのかも知れない。しかし、それは美男子同士が愛し合うという綺麗に彩られたもので、だからこそ淫靡なイメージを受けるのだ。しかし実際には、むさ苦しい男同士が静かな密室で、悶える姿や、その声などを想像すると、普通なら嘔吐を催してもいいだろう。
そんな場面を他の人に見られでもしたら、それこそ自殺でもいたいと思う人がいてもおかしくないだろう。
意外と同性愛に走る人ほど、羞恥心を把握できていないのかも知れない。
だが、この二人に関しては、羞恥心は心得ていた。安川の場合は羞恥心があるからこそ、同性愛に走ったとも思っている。かなぐり捨ててしまうと、抵抗がなくなってしまい、ただの快楽だけを求める人間に成り下がっていることが分かるからだ。羞恥心が歯止めだとは思っていないが、羞恥心が教えてくれるものは結構あるのではないかと思っている。
そんなことを思っていると、深溝は急に睡魔に襲われたのか、何と目を開けているのに、すでに眠ってしまったいるようだった。
その表情は安心しきったようで、次第に目が閉じていく。その時に彼が白目を?いているように見えて、どこか気持ち悪さを感じた。
「気持ち悪い」
と一瞬感じたが、この顔は今までに見たことのない顔ではなかった。
ベッドの中で快感を貪り、憔悴感が漂ってリル中、すでに力が入らない状態になっている深溝が、たまにする表情だった。
その時は、今のように、
「気持ち悪い」
などということを感じない。
気持ち悪いと感じるのは、その場面ではありえないような表情になった時であろう。本当は今感じることは、
「懐かしい」
という思いであり、決して、
「気持ち悪い」
という気持ちではないはずだ。
だが、今安川は、ベッドの中での深溝の顔を思い出していた。白目を剥いた顔や、目を開けたまま眠ってしまったという一種異様な光景を、果たして懐かしいと思って今、思い出すことができるのだろうか。
「深溝さん、眠ってしまわれましたね」
と、看護師は独り言なのか、それとも安川に言ったのか分からないほど、微妙に中途半端な声を発した。
「眠ったら、なかなか起きないんですか?」
このまま、何時間も寝続けられていられると、さすがに自分の身のやり場に困ってしまう。
「そうですね。結構眠っていられますね」
「どれくらいですか?」
「少なくとも三時間くらいは目を覚ますことはないと思います。私もずっとついているわけではないのでハッキリとは言えませんが、深溝さんが眠りに就いてからというもの、先生からの指示で、私は三十分に一度は病室を覗くようにしているんです」
と、深溝の掛布団を整えながら言った。
「どうしてですか?」
「先生がおっしゃるには、ひょっとすると今後あまりにも深い眠りに陥ってしまうことがあるかも知れないということでした。特に気が付いたら寝ていたというように高速で寝てしまった場合など、気を付けなければいけませんね」
「じゃあ、今日の秒な状態ですか?」
「ええ、そういうことです」
「分かりました。じゃあ、僕は少し先生とお話して帰ることにします」
と言って一礼して、病室を後にした。
医者は医局にちょうどいたので、声を掛けてみようと思うと、先生の方も安川に気付いたようで、