小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

加害者のない事件

INDEX|20ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

「実生活の中で何かを考えるというのは、最終的に何かに決めるということである。その材料は揃っていて、その中からどれを選べば一番の正解なのか、似たようなシチュエーションで、まわりにいるのが同じ人であっても、考えているのが別の人だったら、まったく違った選択をするかも知れない。その人の性格もあり、正しい選択というのは、その人それぞれの性格でも変わってくる。だから答えは一律に一つではないということだ。
 だから、まわりの状況、自分の性格、そして過去の経験などから、何が正しいのかを自分で割り出す。それを考えるというのだろう。
 人間は成長するものだということなので、同じようなシチュエーションでまわりが同じで、同じ人が考えるとしても、過去と同じ回答をするのが正解とは限らない。この世で二つと存在しない例として十分な場面だと言えよう。
 そういう意味で、
「ちゃんと考えろ」
 と言われている人が、よく人から説教される時に使われる話として、
「家を出る時に、最初に右足から先に踏み出すか、あるいは左足から先に踏み出すか、それも考えるということだ。つまりは、絶えず何かの選択には考えるということが伴ってくる」
 と言われることが多い。
 この言葉が考えるということの本質を捉えているのではないか。
 安川は子供のことから、このセリフを言われ続けた。親から言われ、学校では先生に言われた。もううんざりだった。
 確かに自分は考える、つまり選択においては苦手なところがあった。理屈は分からなくとも、何かを考えるということが選択に当たるのだということをである。だが、選択などにどんな偉さがあるというのだ。二つに一つ、考えなくとも選ぶことはできる。考えて選んでも不正解なら、
「何も考えていない」
 と言われる。
 しかし、考えなくとも選んだことが正解なら、褒められる。それは理不尽というものではないか。裏でこの思いがあるから、
「ちゃんと考えろ」
 という言葉に違和感を抱き、どうしても逆らいたくなる。
 その思いが、考えるということがどういうことなのか、分からないという発想委なるのだ。
 その思いが大きくなっても承服できない、理解できないことは最初から受け付けなくなってしまったに違いない。そのために世間を欺くような性格を表に発信し、なるべく悪い意味ではない自分を形成しようと思う。その態度が他人から見て、
「自由奔放」
 あるいは、
「品行方正」
 という四字熟語に当て嵌まるようにまわりに見せているのだろう、
 どちらも本来なら悪い意味で使われることは少ない、特に品行方正と聞いて悪く感じる人はいないだろう。だが、最初から自分の性格の隠れ蓑として使っているのだから、
「人を欺くことはそんなに難しいことではない」
 などという甘えた思いに至ってしまうこともあるのだろう。
 そういう意味での、
「考える」
 ということに対してはいつも厳格で、決して間違った選択をしなかったのが、深溝だった。
 本当のことをいうと、高校生の頃までは、安川も深溝のような人は嫌いだった。自分も高校生の頃までは人と話をすることもなく、集合写真を撮っても、いつも端の方にしかいないタイプで、誰から見ても、
「その他大勢」
 と言われていたのだ。
 実際に自分もそれでいいと思っていたし、まわりにいる人間を、
「皆、僕よりも優れている」
 という思いもあったが、逆に、
「俺はお前たちとは違うんだ」
 と、一人称単語すら違っているほど、正反対の面を持っていた。
 実際にどれだけ違っているのか分かるはずもなく、闇雲にまわりとの違いを主張することで、自分の劣等感を払拭しようとしていたのだろう。
 そんな中だったので、まわりには誰も寄ってくるはずもなく、自分が何者なのかということすら暗中模索の状態だったのだ。
 だから、好きになる人よりも嫌いになる人の方が圧倒的に多かった。高校時代に人間として好きになった相手があっただろうか。きっと自分を好きにならない限り、誰かを人間的に好きになるなどということはありえないと思っていた。
 それがどうだろう。大学に入ると、
――なんでこんな奴が大学生になれるんだ?
 と思えたり、
――これが大学生なら、何もあんなに必死になって勉強して入学してくる場所ではない――
 などと考え、自分の想像をはるかに超える人たちが存在していた。
 そんな中、楽しい中にまわりへの疑心暗鬼が浮かんでくると、今まで嫌いだったはずの深溝が現れた。
 彼と話をしている間に気付いたことがあった。それは、
――あの頃、彼のようなタイプを見て嫌いだと思ったのは、まるで目の苗に鏡があって、その鏡に写った自分に嫌悪の顔を浮かばれたことで、同類としての哀れみを感じたからではないか――
 という思いであった。
 実際にはもっと自由な環境に自分も酔ってしまい、それが堕落への道だということを知らず、何かの魔力に引き寄せられるように入り込んでいくことで、少なくとも違った目線から見た深溝が、自分にとって尊敬できる初めての人間として映ったのだった。
 いきなり尊敬というのは大げさだが、少なくとも、
「考えるということの被害を最小限に抑えられる部類の人物だ」
 ということを感じた。
 考えるということへの被害がまったくないなどということはないと思っていた。
「失敗をしない人間なんていない」
 という言葉を聞いたことがあるが、それと同じ意味ではないか。
 それが、深溝という人間に対しての思いであり、しかも再認識して感じた、完璧な見え方だったのではないかと思った。
 深溝が安川に対して、
「俺のベッドの中に来い」
 と言った意味を、看護師が理解したのかどうか分からないが、一瞬、身体がビクッとしたのを感じた。
 彼が口にした瞬間、反射的にまわりの人を見たので、間違いないと思うが、さすがに一瞬、
――こいつ、何を言ってやがる――
 とばかりに顔が羞恥に真っ赤になっていくのを感じたが、そういえば、安川はすでに羞恥など、どこかにかなぐり捨ててきたのを思い出していた。
 あれは大学に入学してすぐくらいだったか、実は安川はまだ童貞だった。最初の相手は彼女ではなく、よくある風俗での体験だった。先輩に連れていってもらうというパターンもよくあることだが、
「おい、そろそろお前も童貞を卒業してもいいだろう。俺もいくから連れて行ってやろう」
 とばかりに、その日だけは先輩の驕りということで連れて行ってもらった。
 それまでの安川は、彼の象徴ともいうべき、
「自由奔放、品行方正」
 とは正反対で、高校生がそのまま大学生になっただけの人付き合いもできないような日陰人間だったのだ。
 風俗に連れて行ってもらうと、待合室に入ると、そこにいたのは、皆緊張でタバコを何本も吸っている連中だった。
「こいつらだって、もう何回も来ているんだぜ。それでも待合室に入るとこの緊張感さ、人間の羞恥心というのは大したもんだよな」
 と、先輩は耳打ちで話してくれた。
作品名:加害者のない事件 作家名:森本晃次