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加害者のない事件

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 と、ここまでいうと、涙で何も言えなくなったかのようにむせかえっている姿が痛々しく感じられてしまう。
「お前、そんな風に俺を見ていたんだ。俺はそんなに薄情な人間じゃない。確かにお前のように精錬実直ではないが、気持ちに正直なところはお前に負けないつもりだ」
 というと、
「そうだよね。それが安川という男なんだよな。分かっているつもりなんだ。分かっていても俺の中の正直な気持ちがそれを許さないんだ。本当に因果な性格なんだって思うよ。お前からすれば信じられないことも多いだろうな。俺だってお前の性格を信じられないし、それは仕方がないことだと思っている。思っていてもダメだと感じるのが、気持ちの中での『負のスパイラル』というやつなのかも知れないな」
 と、深溝はいうだろう。
 二人の関係は、そんな彼のいう「負のスパイラル」を描いているというのだろうか。安川にはそれが渦巻きとなって海に浮かんでいる「鳴門の渦潮」のように見えて仕方がなかった。
「お前、どうしちゃったんだよ」
 思わず、怒鳴ってしまった。せっかく今まで想像で会話をしてきたのに、その想像が自分の中で許容範囲を超えたのであろうか。そう思うと、自然と声が出てしまったのだろう。看護師も警官もビックリして、視線を安川に向けた。
 もう後戻りできない状況であったが、出てしまったものは仕方がない。気持ちの切り替えが早いのも安川の長所だと言えるだろう。
 深溝が今の言葉を聞いてどんな様子かと覗き込んでみたら、いつの間にか彼の視線はこちらを向いていた。今の今までそれに気づかなかったわけだが、こちらを向いたのは、今の大声のせいだと思う。
 確かに最初は彼の視線を、
――こんなに無気力だと、こっちを向くこともないだろう――
 とタカをくくっていたのは事実である。
 そのおかげでこの状況下で、自分の世界に入り、考え事での独り言を言えたからであり、最後には声を発してしまったわけだが、それなりに普段なら感じることのできない思いを、考えられないような場所でできたことは自分でもビックリだった。
 しかし今、そんな深溝がこっちをじっと見ている。何かを言いたいのか、ただ何を考えているのか分からなかった。
 それよりも気になったのは、彼がこっちを向いた瞬間が分からなかったことだ。確かに自分の世界に入り込んでいると、なかなかまわりを見れなくなるものだが、今の彼の鋭い視線に気づかないほど自分が鈍感だとは思っていない。これだけの視線を浴びれば、その原因が分からなくともドキッとして、身構えるくらいのことはあってもいいはずだ。
 それなのに、彼を見て初めてあのような表情に出くわしたのだ。まるでお化けにでも遭遇したような気持ちになるのも無理はないのかも知れない。
 彼は数秒、安川を見ていた。安川もその視線から目を逸らそうとするのだが、金縛りに遭ってしまって視線を逸らすことはできない。確かにその顔には恐ろしさを感じるが、初めて感じる視線ではないような気がした。
――前に感じた時も、こんなに怖いと思ったのだろうか?
 いや、そんなことはないはずだ。分かっていればその時の感覚を、思い出すはずだからである。
 数秒間が結構長く感じられた。まるで、
「ヘビに睨まれたカエル」
 と絵に描いたようで、ガマの油が出てくるような錯覚を覚えた。
「魔の数秒間」
 とでもいうべきか、長い長い数秒が終わると、今度は今までフリーズしていた深溝の態度が一変した。
――こんなに変わるものか?
 と思うほどで、それまでの恐ろしいヘビの視線から、急に笑みが浮かんだ。
 目に見えているのは顔全体であったが、視界に入っていたのは、目だけだったような気がする。
 その目が微妙に歪んだのだ。最初は笑みだと分からなかったが、目に入っている部分の唇が怪しく歪んだ時点で、笑っているのが分かった。
 すると、急に喋り始めた。
「安川じゃないか? どうしたんだ、こんなところで」
 まったく今までの記憶がなくなってしまっていたように見えたが、ひょっとすると、最初から意識はない状態だったのかも知れない。
「ああ、見舞いに来たんだよ」
「見舞い? 誰の?」
「何を言ってるんだ。お前だよ、お前」
 この状況は記憶がないだけの普段の深溝のように思えて、安川も気安く話しかけていた。「先生からの注意もこれなら関係ないだろう」
 という思いが強く、普段通りの接し方になっていた。
「せっかくベッドがあるんだ。こっちに来いよ」
 と、いきなり言った。
「おいおい、何を言い出すんだ」
 と安川は焦った。
 この焦りの真の意味をまわりの人は気付かないだろう。深溝のそのセリフに対してビックリして振り返ることはなかったからである。
 そうなると、安川は自分の態度がいわゆる、
「余計な与えないでもいい思い」
 をまわりに与えてしまったのではないかと思い、ハッとした。
 ただ、彼がベッドを見て自分を誘ったことの理由が自分だけに分かるので、焦ったのも無理のないことだった。
深溝がなぜそんなことを言い出したのか、言ったことの内容には理解があるが、なぜ口走ってしまったのかということは一向に分からない。
 深溝が言った言葉の本当の意味は、
「一緒にこの中で愛し合おうぜ」
 ということであった。
 その恥辱に塗れたそんな言葉をなぜ臆面もなく口にすることができたのか、本来であれば一番言いたくない、知られたくない事実ではなかったか。
――俺はいいんだ――
 と、いつも自分に言い聞かせていた。

               クスリ

「どうせ俺は、まわりから自由奔放なやつだと思われているし、実際にそうも言われる。これは皮肉を込めた言葉であって、褒め言葉では決してない。『お前の行動には節操がない』あるいは『お前には何を言っても無駄なんだ』という言葉が頭から離れないんだ」
 と自分で自分に語り掛けていた。
 そして次々に説教されて、何も分からずにヘラヘラと笑っている子供の姿が影絵のように、薄暗くなっている沈みかけた日をバックに浮かび上がっているのが見えてくるようである。
「お前は何を考えているんだ?」
「何も考えていないじゃないか」
「少しはちゃんと考えろ」
 そのほとんどの言葉にくっついてくる「考え」という言葉。
 一体何を考えるというのだ? 果たして考えるというのはどういうことなんだ? 自分にできないことなのだから、結構難しいことなのか? でも、皆簡単にできているように言われる……。
 そんなことをいろいろ思い描いていると、結構自分でも「考える」という言葉も使っているし、自分が浴びせられた罵声を、他の人にも使っている。他の人はどんな気持ちで聞いているというのか、訪ねてみたいくらいだ。
 考えるという言葉について、感じることは、
「いくつかあるうちの選択なのではないか?」
 ということであった。
作品名:加害者のない事件 作家名:森本晃次