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加害者のない事件

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 つまり、将棋というのは動けば動くほど勝つ可能性も増えるが、負ける可能性も増えるということ。一種の減算法だと言ってもいいだろう。最初に気付かなければ、下手に動いても、そこに効果はないかも知れないというのが、門倉の計算だった。
 この場に門倉はいなかったが、門倉は安川と逢わせることで、それほどの復活を期待していたのだろう。門倉は少しは期待していたようだったが、実は鎌倉氏はさほど期待はしていなかった。
 鎌倉は安川とは面識があったが、深溝とは面識がない。彼がどのような状況なのか、実際には見ていないのだ。
 門倉は彼の状況を把握しているつもりだった。見る限りでは、
――これじゃあ、当分記憶なんか戻りっこないよな――
 と気持ちは早く戻ってほしいと思いながらも、現実難しいと思っていた。
 ただ、何かの起爆剤があれば違うと思ったが、それが安川であり、瑞穂であった。
 瑞穂の場合は、一応殺そうとした相手であり、自首してきているわけだから、もう滅多なことはしないと思うが、逢わせるのは危険であり、瑞穂野気持ちを考えると、かなり無謀なことであった。
 それに、深溝に対しても、無理やり記憶を戻すという荒療治に近いものとなるので、それは危険だというのが担当医の考えだった。
「これは昔の電気ショックのようなものなので、失敗すれば取り返しのつかないことになるかも知れない」
 というのが、先生の意見だった。
 ここでいう、
「取り返しがつかない」
 というのが果たしてどういうことなのかというと、
「変に深溝さんの記憶を刺激すると何をするか分からない」
 というものであった。
「睡眠薬を服用していたというのは、ある意味神経的にどこか疾患があったから、使っていたのかも知れない。体質ではあるが、人によっては睡眠剤を定期的に服用することで、精神安定剤の代わりにしようと思っている人もいるくらいだからね」
 と言っていた。
 それに睡眠薬はその種類によって依存性のあるものもあるという、要するに、
「くせになる」
 ということだ。
 もちろん、彼も医者の処方によって服用していたので、そちらの調べも済んでいた。その担当医によれば、
「彼の服用は、さほど強いものではなく、高校時代の受験勉強により生活が不安定になることで不眠症という情対を引き起こしていました。彼はそれを自覚していて、すぐに通院を始めたので、誰にも悟られず、睡眠薬の服用だけでかなり良くなってきていると思われます」
 と言っていた。
 彼には睡眠薬を服用する理由もあり、その服用が悪いわけではないということが立証されたのだ、
 彼のように実直な性格の人が、そもそも睡眠薬でおかしなことになるというのもおかしなものだ。
 だが、なぜか彼には彼女ができない。しかもそのことを自分で気にしているわけでもなければ、誰も相談を受けた人はいないという。
 昨日、鎌倉は安川に対して聞いたのは、
「深溝さんには彼女というのはいないのですか?」
 という質問に対して安川の返事は、
「僕が知っている限りではいないと思います」
「君にはいるのにね」
 と言って、少しニヤッとした鎌倉に、一瞬ドキッとした安川だったが、彼も毅然とした態度で、
「ええ、そのことでやつが僕を羨ましがっているということはなかったと思います」
 というと、
「そうかな? 他の学生に聞くと、どうも深溝君は君に嫉妬しているような気がすると言っていたようだったけど?」
 と聞くと、
「少なくともそんなことはないと思います。僕にとって深溝は親友なので、彼の心の動きは分かるつもりです」
 と、いう言葉には自信が籠っていた。
 その自信に鎌倉探偵が不審に感じたのは無理もないことだった。ここまで自信を持って言えるということは、深溝がどう思っているのかは分からないが、安川にとって、二人は対等の関係ではなく、自分の方が優位に立っているという意味での自信ではないかということであった。
 鎌倉探偵にとって、この二人は基本的に対等であってほしいと思っていた。自分が優位に感じている友達が、勝手に自分の知らないところで自分の彼女を呼び出した。その時に安川なら何を考えるだろう?
 安川の知らないところで深溝の瑞穂に対して、
「親友の彼女」
 ではなく、
「恋愛の対象」
 として映ったのだとすれば、横恋慕というものでないだろうか。
 そうでないとすれば、親友のことを思ってになるのか、深溝の方で何か勘違いをし、瑞穂が安川のそばにいることで安川がダメになってしまうことを懸念して、彼女に安川との別れを懇願に行ったとも考えられる。
 ただ、安川に対しての気持ちが親友以上のものであるかも知れないという懸念を抱いてはいるのだが、それはあくまでも、
「ありえないことはない」
 という信憑性としてはかなり薄いものではなかったか。
 それ以上のことを想像するのは怖い気がして、なるべく考えないようにした。
――あんなのはマンガや小説の中の世界だけのことだ――
 などと、甘ちゃんな考えを持っていたわけではないが、そうでないことを祈るという程度で、どちらかというとそんな発想をしてしまった自分に対して恥ずかしく感じてしまう鎌倉だった。
 安川は深溝にいろいろ話しかけるつもりだったが、今の状態で何を話していいのか分からない。言葉が出てこないのだ。ベッドに横たわっている彼を見るだけで恐ろしくなる。
――ベッドの中の彼って、こんなかんじだったのだろうか?
 とふと余計なことを安川は考えた。
――いやいや、そんなことはない。俺の顔を見て反応しないなんて、何かが間違っている――
 とまで思った。
 だが、何が間違っているというのだろう? それを考えると、今自分がこの病室にいることが不自然に感じられた。そして、目の前にいるのは確かに深溝だが、その彼に対して何もできないということが安川にとって緊張感をさらに深めた。
 もし、その時深溝に意識があり、この状態での再会だったとしたら、安川はもっと頭が混乱していたかも知れない。だが、何も言わずにベッドで佇んでいて、自分を無視しているように見えるのは、いくら記憶が欠落しているという予備知識を得ていたとしても、かなりのショックであるのは間違いない。
「おいおい、俺が何をしたというんだ」
 と、声にならない声を発したかと思うと、今度は何も喋っていないはずの深溝の言葉が聞こえてきた。
「何をしたかだって? 自分の胸に聞いてみるんだな。この裏切り者」
 と罵られている気がした。
 架空の会話がそのまま続く、
「裏切り者? それはそっちだろう。どうして勝手なことをするんだ」
「お前が俺を見限ったからさ、俺たちはそんな関係だったのか?」
「どんな関係だっていうんだ。俺が恋愛して悪いのかよ。お前だって普通に恋愛すればいいじゃないか」
 というと、深溝は顔を真っ赤にする。
 それを見て、
――しまった――
 と感じた安川だったが、もう後の祭りだった。
「できないことくらい知っているくせに、それを知っていて俺に近づいたのか。俺だったら何とでもなるか思ったんだよな。しょせんお前はそういうやつだったんだ。そんなお前を信用した俺がバカだった。しかもまだ俺は……」
作品名:加害者のない事件 作家名:森本晃次