短編集86(過去作品)
西本氏は無駄な考えは極力したくないという思いが強い。だから一つのことを考えるにもいろいろなことを頭に思い浮かべるようなことをしない。それだけに即決で考えが決まるが、恐ろしく感じることもある。
しかしそれは間違いだった。無意識のうちに頭の中でいろいろなことを考えていることが多く、あまりにも急展開で考えているために見えなかった。理科の授業で習ったことを思い出していた。授業中に先生の話を聞いていてドキッとしたが、なぜドキッとしたのか分からなかったが、後から思い返すと、自分の考え方に関連していることだったので、ドキッとしたことに気付いたのだ。
そう、理科というと須藤先生がその時の教壇に立っていた。先生のあの長い後ろ髪を思い浮かべていると、その時の授業内容が頭の中によみがえってくる。
「スピードの速いものや、ものすごい回転をしているものは、そのエネルギーによって見えなくなったり、ついている色が真っ白になったりするんだよ。説明しているだけでは分からないと思うから、先生が今日は道具を用意してきた」
と言って先生の手には紙でできた手製の円盤が握られている、真ん中付近に二つほど穴をあけ、そこに紐を通して両側で結ぶ。円盤の表面はまるで傘のえらのように等分されていて、そこにはカラフルな色が塗られている。
先生は両側で結ばれた部分を手に持って何回か振り回した。すると紐が捩れてくる。ここから何をするのかは大体想像がついたが、その結果先生が言いたいことが本当に現実のものとなるのかが疑問であり、興味があった。
先生は捩れた紐の中心にある円盤をたらすようにしていたが、一気に紐の両側を引っ張った。するとどうだろう。両側から引っ張られた円盤は捩れを戻そうと一生懸命に回転を始めた。まるで笛のような音が聞こえてきそうなほどである。
問題は円盤の表面である、あれだけカラフルな色を見せていた円盤の色が一気に真っ白になってしまったではないか。その時に見た光景はそれほど衝撃的でもなかったはずなのに、なぜそこまで気になったか不思議だった。
しかしそれも、色が白くなること、そして消えてしまうことを言いたいという先生の話を思い出すことで、辻褄が合ってしまうのだ。
物事を早く考えすぎて、自分でも分からなくなってしまうことが往々にしてあるのかも知れない。それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、西本氏自身ではいいことだと思っている。
気付くまでは、何も考えていないように思えたからだ。
――結構いろいろなことを考えているんだな――
と思うと、自分になかった自信が生まれてくる気がするのだ。
「自信」などという言葉は自分には無縁だと思っていた。人と同じことをするのが嫌なのは、自分に自信がないからだと気付いたのは、高校になってからだろうか。しかし、だからと言って今まで生きてきた信念を曲げようとは思わない。
――自分だけにしかできないこと――
それを探すことは決して自分に自信がないからではない。むしろ自分に自信がなければできないことだ。人と協調していきたいという考えが芽生えた反面、自分だけにしかできないことを探そうという気持ちが芽生えてきたのは、自分が成長したからだろう。いろいろなことを一気に考えるのもまんざらではない。それなりに様になってきたのだ。
社会人になって、一人の女性と出会った。彼女はそれまで自分が捜し求めていたような理想の女性だった。
大人しく、物静かで、謙虚さが漂っている。そんな女性を待ちわびていたことに気付いた時、思い出したのは牧野先生だった。
高校時代というとお姉さん風の女性が気になったとしても、大人の色香を漂わせ、香水の香りがしてきそうな女性に目が行きがちだったので、あまり目立たない牧野先生は印象の中になかった。ただ、オタクのようだったあの須藤先生を変えたのは間違いなく牧野先生だっただろう。それを考えれば、理想に近い女性だったことに納得もいく。
その女性、名前は恵子といい、会社にはパートで来ていた。
西本氏は、その時失恋した後だった。恋愛の何たるかも知らずに、ただ知り合った相手を好きになっていた頃である。相手の女性を好きになっていたのか、女性というものに興味があっただけなのか、自分でもハッキリと分からない。
女性と付き合いたいという思いと、自分は一人だという思いが交錯している時期でもあった。大学を卒業し、友達は皆バラバラになった。赴任地が学校からも、家からも離れているため、なかなか学生時代の知り合いに会うこともない。孤独感に苛まれてしまうのも仕方のないことだ。
自信を持つことが、どれだけ自分を解放できるかということに気付いたのも、その頃だった。
恵子は西本氏よりも歳が二つ上、大人っぽく見えて当たり前だが、まだ社会に出て時間が短かったから、さらに歳が離れているように思えた。
「失恋の痛手は、次の恋で癒せばいい」
と人からは言われたが、恵子に会うまではとてもそんな気分になれなかった。
真剣に人を好きになったと思っているからこそ、痛手も大きいのだ。
だが、恋というのは、そう簡単に転がっているものではない。
――人が人を好きになる――
それは素晴らしいことだが、相性というものも大切である。第一印象だけで決められるものではない。
それでも一度女性というものを好きになってからというもの、絶えず誰か好きな人がいないと物足りない自分がいる。
失恋しても懲りることなく、何度も女性を好きになるというのも、悲しい男の性と言えよう。
最初に付き合った女性とは、それこそプラトニックラブだった。手を握るまでは早かったが、それからがなかなか進まない。手を握るのは、お互いの気持ちの高ぶりでいけたのだが、そこから先は見えない壁のようなものがあるようだ。
初めて唇を重ねた時、身体に電流が流れたような気がした。相手もそうだっただろう。
――これで彼女は僕のものだ――
男は征服感に襲われる。だが女性はそうではないらしい。
女性には二つのパターンがあるようだ。
唇を重ね、相手を感じることで、相手に委ねる気持ちを確信する女性、はたまた、我に返ってしまって、相手との間に一線を引いてしまう女性。
彼女は後者だった。
お互いに異性と付き合うのは初めてで、好奇心半分、怖さ半分だっただろう。西本氏は最初怖さの方がどちらかというと強かった。しかし、唇を重ねることで、気持ちが開放的になってか、彼女との距離が縮まったと思うのはいいのだが、いつしか自分のものになったような錯覚に陥ってしまっていた。
それが勘違いだと感じた時、それは彼女が自分から去っていったあとのことだった。しかもかなり経ってからのことで、去っていった彼女の後姿をただ眺めているしかなかった自分が情けない。
――なぜ、急に離れていったんだ――
そのわけは実はいまだに分かっていない。今でも時々、男女問わず仲良くなりかけた人が自分の前から去っていくことがあるが、いつも自分が悪いわけではないと思っているので、不思議ではあるが、すぐに気にならなくなっていく。
作品名:短編集86(過去作品) 作家名:森本晃次