短編集86(過去作品)
山間に光っている無数の星と、住宅地を中心とした小さな丘をバックに広がる夜空では明らかに違うものだと思っていた。想像していたより大きな空に、少し見とれてしまっていた。
月を見ることなど都会に出てきてあまりなかったことだ。出てきた当初は田舎が恋しくて見ていたものだが、慣れてくると、月よりもネオンサインの方が気になってくる。ネオンサインといっても如何わしい店であるが、伸介は染まりやすいタイプだということに自分で気付いたのも、その頃だった。
会社の帰りに先輩から連れて行ってもらった風俗店、いくつなのか分からない女の子が暗いところで濃い化粧をして現われる。
つい相手の素性を知りたくなるのは田舎者の証拠だろう。
「そんなこと聞くもんじゃないぞ」
同僚に言われてハッとしてしまった。個室で二人きりになったら会話なんて出てくるはずもない。相手を知りたいと思う気持ちからきっと素性を聞いているに違いない。釘を刺されるまでピンと来なかった。
個室に入ると無口になる。いろいろ聴きたいことがあっても、口から出てくることはない。それだけ緊張しているのだ。素性を聞くなど取り越し苦労というものだが、相手はさすがに海千山千、会話も得意である。
こちらが話しやすいように導いてくれる。どう見ても自分よりも歳の若い女の子たちに主導権を握られてしまう。しかしそれでも腹が立たないのは、表で見たネオンサインのせいだろう。
――ここは普段の自分がいる世界ではない。ここにいる自分は普段とは違う自分なんだ――
と思うのだった。
怪しげなネオンサインに負けず劣らずの店内、出てきた女の子はケバケバしいが、よく見るとあどけなさが残っている。あどけなさを感じることができるということは、まだそれほど舞い上がっていないからなのだろうか、それともあどけない女性に対しては、いくら化粧が濃くとも分かるだけの素質を持ち合わせているのか、自分でも不思議だった。
「私、最近よく夢を見るの。田舎に帰った夢なんだけどね。そこで待っていてくれるのは両親ではなくて、一人の男の子なの」
一番あどけなさを感じる女性がいて、何度か指名をしているうちにそんな話をするようになった。
「ほう、初恋の男の子なのかな?」
「うん、そうかも知れないわね。そうじゃないかも知れない。幼馴染なんだけど、いつも小学生の頃は一緒に学校まで行っていたわ。その男の子がね。大人になったら結婚しようって言ってたの。本当に子供の会話でしょう」
そんな会話は伸介にも経験がある。この手の会話は田舎の子供、都会の子供と差はないに違いない。あどけない時期は都会も田舎も関係ないのだ。
「何て、答えたの?」
「もちろん、いいわよって答えたわ。彼、とっても喜んでいた。そんな彼を見て私も嬉しくなったわ。母性本能に近いものを感じたのかも知れないわね。いとおしいって気持ちになったんですもの」
思い出しているのか、ほのぼのした顔になった。そんな彼女を見ていてこちらも微笑ましく感じられた。
彼女、名前を「なつみ」と言った。もちろん本名ではあるまい。ここで本名を聞くのはルール違反、自分にとってのなつみであればそれでいいのだ。
「その彼とはそれから?」
「それからしばらくは連絡を取っていなかったわね。中学に入学すると彼は家が引っ越していったから、ハッキリしたことは分からないの。でもね、その引越しも少し曰くありげだったんだけどね」
「曰くありげ?」
「ええ、どうやら母親に何かあったらしくって、家族はあっという間に引っ越していったわ。田舎のことだから、何かあったらすぐに噂として広がって、しかもそれが統一されていないみたいだったから大変、きっと追われるように引っ越していったのかも知れないわね」
「そんなことがあったんだ」
「ええ、だから彼がいるわけでもないのに、夢を見るっていうのもおかしいでしょう? しかも彼は小学生で、私は大人の私。子供を相手にしているんだけど、どこか彼を尊敬しているところがあるの。もし結婚を申し込まれたら、その場でOKしてしまうと思うの」
言っている話は支離滅裂に聞こえるが、伸介にも同じような思いがある。
友達が出てくる夢で、自分だけが社会人になっているのに、友達は皆まだ学生、場面が大学のキャンパスで、皆とは卒業してから会っていないのだから当たり前のことである。
なつみにとっての彼とはどんな存在なのだろう。ただの幼馴染ではないようだが、何か心に引っかかるものがあって、それがトラウマになっているのではないだろうか。そしてそのなつみの話が妙に引っかかった伸介にも、過去に同じようなトラウマを感じた人がいるのではないだろうか。
思い出してみるがピンと来ない。だが、心のどこかで何かの引っ掛かりがある。
家の近くの馴染みの居酒屋、そして、ネオンサインの如何わしい店、まったく違う雰囲気だが、伸介にとっては、心のどこかに、
――遠い昔に忘れ去ったものを思い出させる何かを見つけることのできるところ――
として、刻まれているに違いない。
なつみとの出会いが自分にどんな影響があるかなど考えたことはない。考えても深入りしてはいけない相手だと肝に銘じているからだ。冷静さを失わない付き合いがお互いにいい付き合いのはずなのだ。
伸介は自分が情に脆いところがあると思っていた。ドラマなどを見ていて悲しい場面があれば知らず知らずのうちに涙が出ていたりしたからだが、最近ではそんなこともなくなった。
――涙を流すなんて格好悪い――
と思うようになったからだろう。人に見られたら何と言われるだろう。実際に自分がその人の立場になったわけでもないのに、その人の気持ちに入り込もうなどというのは、気持ちに驕りがあるからで、人から非難されても仕方がないことに違いない。
――立場が違うのだから、違う立場で見てあげることこそ、相手のためだ――
と言っていた人がいたが、当然のことである。
自分にとって相手にとって、お互いに尊重し合えるような関係を気付くことが大切なのだろう。なつみに対しても同じことを感じていた。
「私、下手な同情なんていらないのよ。そんなことされたら、もうその人の顔が見れなくなっちゃう」
そう言って悲しそうな顔をしたが、当然である。
「俺はそんなことはしないよ。ただこの時間一緒にいて話をしているだけで少しでも気持ちが近づけばいいと思っているんだからね」
キザでもなんでもない。自然と口から出てきた言葉だ。なつみにもそれが分かったのか、
「ありがとう。そう言ってくれると私も嬉しいわ」
ひと時の恋人同士である。
その日の恋人は、時々の恋人になった。贔屓目に見るからかも知れないが、彼女の態度は明らかに他の人に対してと違っている。事務的な態度が一切ないのだ。
なつみはそんな女性なのかも知れない。だから忘れられなくなりそうなのだが、それは自分に対してだけであってほしいと思うのは、男としてのわがままだろうか。
だが、夢の中になつみが出てきたことはない。一緒にいる時がまるで夢のようだと思っているからに違いない。二人だけの世界とはそれだけ日常の自分と違うところにいるのだろう。
作品名:短編集86(過去作品) 作家名:森本晃次